東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記「旧東ドイツの旅」

03. ベルリンの壁とブランデンブルク門

東西分断とベルリンの壁

西暦1945年4月末にソ連軍戦車がベルリンに突入し、ヒトラーが自殺し、その数日後にドイツは降伏した。ドイツ、そして首都のベルリンも連合国軍によって占領されたわけだ。そして西暦1948年、東ベルリンを占領するソ連がイギリス・アメリカ・フランスの占領する西ベルリンを封鎖した。しかし、西側諸国は西ベルリンに空輸を行い、翌年には西ベルリンの封鎖は終わっている。

西暦1949年、ソ連軍占領下にあった東ドイツと西側連合国軍によって占領されていた西ドイツが分断されたままに独立。但し、西ベルリンは東ドイツの中の飛び地として西ドイツの領土とされたんだ。その結果、東側の体制を嫌う人々は、西ベルリンを窓口として西側へと逃れ続けた。

ベルリンの壁の跡(ドイツ)

東から西への人々の流れを止めたい東ドイツは、西暦1961年にベルリンを東西に分断する境界線を閉鎖した。その境界線上に築かれたのがベルリンの壁だった。(上の画像は東西ドイツの統一後も残るベルリンの壁の様子。)

ベルリンの壁の崩壊と東西ドイツ統一

ベルリンの壁の構築などによって人口流出を止めた東ドイツは、国民の自由を抑圧し続けた。しかし、西暦1985年にソ連においてゴルバチョフ氏が書記長となった。翌年にはアイスランドにおいてレーガン・ゴルバチョフ和平会談が行われた。ゴルバチョフは国内においてもペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を進めたんだ。

東ヨーロッパの共産主義諸国にも影響を与えた。ポーランドでは自由な選挙が行われて共産党が政権を失った。ハンガリーでは改革派の首相が政権を握った。しかし、東ドイツ政府はかたくなに国民の自由を抑圧し続け、国民の不満は高まり続けていた。

西暦1989年5月、ハンガリーはオーストリアとの国境から鉄条網を撤去した。更にハンガリーは9月にはオーストリアとの国境を開き、東ドイツの人々がチェコからハンガリーに入り、そしてオーストリアを経て西ドイツに向かうことを容認したんだ。

しかし、東ドイツ政府は反動的であり続け、チェコとの国境を閉鎖し、人々の出国を抑え込んだ。その結果、東ドイツの人々の不満は更に高まり、ライプツィヒやドレスデンなどで混乱が広まっていった。かくして東ドイツのホーネッカー書記長の解任に至った。東ドイツ政府はチェコとの国境を開き、人々はチェコを経て西ドイツへと向かった。しかし、他方で東ベルリンでは100万人以上の人々がデモに参加していた。

そして運命の11月9日、東ドイツ政府は自国民の出国の制限を緩和することを決定した。但し、自由に無条件に西側へ向かうことを認めたものではなかった。ところが、就任したばかりの共産党の報道局長は新しいルールを十分に理解しておらず、むしろ誤解をしていた。その報道局長は記者会見において、ベルリンにおいても西側への出国が認められると発言してしまった。しかも、新しいルールは即座に効力を生じると。その記者会見はテレビで生中継されていたらしい。

かくして西側との間を隔てるいくつもの検問所に東ベルリンの人々が集まり始めた。その人数は短時間のうちに数万人にも達したらしい。やがて彼らは叫び始めた。検問所の扉を開けと。かくして検問所の扉が開かれ、人々は西側へと向かって行った。対して西側で集まっていた人々がベルリンの壁に登り始めた。そして深夜には全ての検問所が開放され、東ドイツの国境警備隊は撤収していった。

ベルリンの壁の跡を示す赤い線(ドイツ)

更に数時間後、手に手にハンマーなどを持った人々が、ベルリンの壁を打ち壊し始めた。もちろん、東ドイツ政府の許可に基づくものではなく、ベルリンの一般の人々が勝手に行ったことだった。政府の命令によって壁の解体が命じられたのは翌年6月のことだった。上の画像に見える赤い線は撤去されたベルリンの壁の跡地を示している。

ベルリンの壁の崩壊から東ドイツの多くの人々が西側へと向かった。東ドイツの経済はどん底に落ち込んでいった。しかし、ソ連や西側各国の首脳は東西ドイツの統一には時間がかかると見ていた。ところが、ベルリンの壁の崩壊から一年も経たない西暦1990年10月3日、旧東ドイツの各州が西ドイツに編入され、統一ドイツが成立したんだ。

ブランデンブルク門とベルリンの壁

西暦1868年までベルリンを取り囲んでいた壁には、いくつもの門が設けられていた。その一つが下の画像にあるブランデンブルク門だった。プロイセン王国の王、そしてドイツ帝国の皇帝の位を手にしたホーエンツォレルン家のかつての都ブランデンブルクとベルリンとを結ぶ道に設けられた門だったそうな。

ベルリンで見たブランデンブルク門(ドイツ)

ベルリンにおける市街戦の後にドイツが降伏した時、ブランデンブルク門も崩壊寸前だったらしい。そんなブランデンブルク門のすぐ目の前に東西ベルリンの境界線が引かれ、門は東側に取り込まれた。そして西暦1961年、この門のすぐ目の前にベルリンの壁が築かれたんだそうな。その崩壊後、上の画像のように門の周囲は明るく開けているんだけどね。

ブランデンブルク門とナポレオン戦争

プロイセン王家・ドイツ皇帝家との縁の深いブランデンブルク門なんだけど、完成したのは西暦1791年のこと。フランス革命の2年後のことだよね。そのフランスで皇帝ナポレオンの戴冠式が行われたのが西暦1804年。その2年後の西暦1806年、プロイセン王国はフランスに敗れ、皇帝ナポレオンがベルリンに入城したんだ。

ベルリンで見たブランデンブルク門の上の4頭立ての馬車と勝利の女神ヴィクトリア像(ドイツ)

勝者としてベルリンに入城した皇帝ナポレオンは、ブランデンブルク門でパレードを行った。のみならず、門の上にあった4頭立ての馬車に乗った勝利の女神ヴィクトリアの像(上の画像)をパリに持ち帰って行った。それが門の上に帰って来たのは、ナポレオンが敗れた後のことだった。

余談ながら、ナポレオンは戦いに勝つ度に様々な戦利品を持ち帰っている。例えば西暦1797年にヴェネツィアを屈服させた際には、サン・マルコ寺院から4頭の馬の像を持ち帰っている。その前年の西暦1796年にイタリア遠征をいった際には、ローマボルゲーゼ美術館のコレクションを持ち帰っている。そんなナポレオンもミラノの教会の壁に描かれたダ・ヴィンチの最後の晩餐を持ち帰ることが出来なかったみたいだけどね。


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