世界史の舞台となった小さな街 ポツダムに到着昨夜はベルリン市内のホテルに泊まり、朝食を済ませた後、ツアーのバスに乗って出発。20分ほどで到着したのがポツダムの街だった。ポツダムはベルリンの南西 26kmほどのところにある。
この土地には古代からゲルマン人やスラヴ人が住んでいたらしい。14世紀の半ばには自治都市となっている。その後はプロイセン王やドイツ皇帝を輩出するホーエンツォレルン家のゆかりの街となっていった。
ポツダム会談の舞台となったツェツィリエンホフ宮殿西暦1945年5月にドイツが降伏して2ヶ月あまりが経った7月、イギリスのチャーチル首相、アメリカのトルーマン大統領、ソ連のスターリン書記長などの連合国の首脳たちが集まった。その舞台がポツダムにあるツェツィリエンホフ宮殿(下の画像)だった。
このポツダム会談においては、第二次世界大戦の戦後処理が討議された。ドイツの占領政策をどうするか、ドイツにいかなる賠償義務を課すべきか、ソ連・ポーランド・ドイツの国境をどう定めるか、東欧に残るドイツ人にどう対処すべきか、東欧などの統治を如何にすべきか、 ・・・ 。
ツェツィリエンホフ宮殿で発表されたポツダム宣言太平洋を舞台に日本と戦い続けていたアメリカとしては、日本に軍を上陸させて戦いを続けた場合の甚大な損害を懸念していた。その損害を抑える為に日本との戦いに参加するようにソ連との交渉を行っていた。その結果、ポツダム会談が続いていた7月半ばにソ連が対日参戦を決めたらしい。(下の画像はツェツィリエンホフ宮殿の会議室。)
他方、アメリカは日本がソ連の影響下に入ることを怖れていた。かくして、急ぎ日本に対して降伏を勧告することを求めたわけだ。その結果、7月26日に日本に無条件降伏を求めるポツダム宣言が発表されたんだ。
ドイツ帝国最後の皇太子ところで、ポツダム宣言が発表されたツェツィリエンホフ宮殿(下の画像)なんだけど、第1次世界大戦が続く西暦1917年にドイツ帝国の最後の皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセンの為に建てられたものだった。父である皇帝ヴィルヘルム2世が息子の為に建てさせた宮殿だった。
しかし、宮殿が完成した翌年の西暦1918年、第一次世界大戦が続く中、ドイツで革命が起こった。紆余曲折の末、皇太子ヴィルヘルムは皇太子としての地位を失い、オランダへの亡命を余儀なくされた。真新しいツェツィリエンホフ宮殿での暮らしは1年しか続かなかったわけだ。
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