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東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
旅行記「旧東ドイツの旅」
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ライプツィヒ略年表
- 7世紀、今のライプツィヒにスラヴ系の人々が集落を作った。
- 1015年、リプツィ城が文書に記された。その名が後にライプツィヒとなる。
- 12世紀半ば、ライプツィヒの街がザクセンを支配するヴェッティン家のマイセン辺境伯の支配下に入った。
- 1170年、ライプツィヒのメッセ(大市)が始まった。この頃から自治権を拡大し始めた。
- 1212年、アウグスチノ会トーマス修道院が設立された。後にバッハが音楽監督に就任するトーマス教会となる。
- 1409年、ライプツィヒ大学創立。
- 1481年、ライプツィヒで本の印刷が始まった。やがてこの街は出版や印刷の中心となっていく。
- 1485年、ライプツィヒの分割によってザクセンの領主であるヴェッティン家の兄弟が所領を分割した。
- 1519年、ルターとエックとの間でライプツィヒ論争が戦わされた。ここでルターは、イタリアのローマからカトリック世界を支配する教皇の絶対的権威を否定した。
- 1539年、ルターがトーマス教会で説教を行った。
- 1632年11月、ライプツィヒ近郊のリュッツェンにおいて、三十年戦争の主役であるスウェーデン王グスタフ・アドルフと神聖ローマ帝国皇帝の傭兵隊長ヴァレンシュタインが激突。スウェーデン軍が勝利を収めたが、スウェーデン王は戦死。
- 1642年から1650年、スウェーデン軍がライプツィヒを占領。
- 1723年、ヨハン・セバスチャン・バッハ(大バッハ)がトーマス教会の音楽監督(カントル)に就任した。彼の代表曲の多くはライプツィヒで作曲されている。また「マタイ受難曲」などはトーマス教会で初演されている。
- 1765年から1768年、ゲーテがライプツィヒ大学で法律を学んだ。彼はライプツィヒにあったレストランのお嬢さんと恋愛関係にあったけれども、やがて失恋に至る。
- 1813年、諸国民戦争(あるいはライプツィヒの戦い)において皇帝ナポレオンの指揮するフランス軍とオーストリア・ロシア・プロイセン・スウェーデンの連合軍が激突した。フランスは敗れ、やがて皇帝ナポレオンの退位に至る。
ちなみに、ドイツを代表するロマン派の作曲家ワーグナーは1813年にライプツィヒに生まれている。
- 1943年、トーマス教会の塔が連合国軍の空爆の被害を受けた。
- 1989年秋、自由化を求めるデモがライプツィヒで多発した。ベルリンの壁が崩壊するのは、その年の11月のこと。
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