東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記「旧東ドイツの旅」

h2. 神聖ローマ帝国とハプスブルク 10世紀から19世紀

略年表 神聖ローマ帝国とハプスブルク 10世紀から19世紀

  • 911年、ドイツ(東フランク)においてカロリング朝が断絶し、ザクセン族出身のハインリヒ1世がドイツ王となった。

  • 933年、ハインリヒ1世がリアトにおいて、後に中世ハンガリー王国を建国することになるマジャール族を破った。

  • 936年、ハインリヒ1世の息子オットー1世がドイツ王となった。

  • 955年、ドイツ王オットー1世がレッヒフェルトの戦いでマジャール族を撃ち破った。

  • 962年、オットー1世(大帝)がローマ皇帝として戴冠し、神聖ローマ帝国が成立した。

  • 976年、オットー2世によりオストマルク(東部辺境伯領)が創設され、バーベンベルク家に与えられた。

  • 1077年1月24日、カノッサの屈辱。皇帝ハインリヒ4世がイタリア北部のカノッサにおいて、ローマ教皇グレゴリウス7世に破門の撤回を乞い求めた。

  • 1081年、神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世がイタリアのローマに教皇グレゴリウス7世を攻め、カノッサの屈辱のリベンジを果たした。

  • 1084年、皇帝ハインリヒ4世がローマを占領し、教皇クレメンス3世により戴冠を受けた。

  • 1085年、皇帝ハインリヒ4世に追われた教皇グレゴリウス7世がイタリア南部カンパーニャ地方の街サレルノにて死去。

  • 1122年、ウォルムス協約。皇帝と教皇との間の聖職叙任権闘争は一応の終息に至った。

  • 1152年、シュタウフェン家の皇帝フリードリヒ1世赤髭王(バルバロッサ)がオストマルクをオーストリア公領に昇格させ、バイエルン公国から独立させた。

  • 1156年、バーベンベルク家がオーストリア大公位を獲得。

  • 1190年6月10日、小アジアにあるキリキア近くのセレフ川に於いて、神聖ローマ帝国の皇帝バルバロッサが溺死した。第三回十字軍の遠征での出来事だった。

  • 1241年、ヴァールシュタットの戦いに於いて、ドイツ諸侯連合軍がモンゴル軍に大敗を喫した。

  • 1256年から1273年、大空位時代。

  • 1273年、ハプスブルク家のルドルフ1世が神聖ローマ帝国の皇帝となった。

  • 1276年、ハプスブルク家の神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ1世がオーストリア大公位を獲得。以後、ハプスブルク家がオーストリア大公位を保持していく。

  • 1348年、ペスト(黒死病)の流行により、ドイツの人口の三分の一が失われた。

  • 1356年、ルクセンブルク家の皇帝カール4世により金印勅書が発布され、七選帝侯が皇帝を選挙する制度が確立した。

  • 1517年、マルティン・ルターが95か条の論題を提示。しかし、最近の研究では、彼の論題が教会の扉に提示されたということは疑われている。

  • 1519年、ハプスブルク家のカール5世が神聖ローマ帝国の皇帝に即位した。

  • 1525年、イタリアのパヴィアの戦いにおいて皇帝カール5世の軍がフランス軍に勝利。皇帝は宿敵フランス王フランソワ1世を捕虜とした。

  • 1529年、スレイマン大帝指揮下のオスマン・トルコ軍によるウィーン包囲

  • 1531年、プロテスタント諸侯がシュマルカルデン同盟を結んだ。

  • 1555年、アウグスブルクの和議。諸侯がルター派を信仰することが容認された。

  • 1618年から1648年、三十年戦争。プロイセンやザクセンは新教連合(ウニオン)に参加し、ハプスブルク家の皇帝を核とする旧教連盟(リガ)と争った。

  • 1648年10月24日、ヴェストファーレン条約。ドイツ諸邦の主権が認められた。神聖ローマ帝国は300以上もの領邦国家と自治都市から構成されるものとなった。また、スイスやオランダの独立が公式に認められた。カルヴァン派の信仰も容認された。

  • 1658年、ライン流域とドイツ北部の諸邦によるライン同盟が結成され、ハプスブルク家に対抗した。プロイセンとフランスも同盟に参加していた。

  • 1681年、太陽王ルイ14世のフランスが帝国領だったストラスブールを攻略した。

  • 1683年、オスマン・トルコ軍による第二次ウィーン包囲。ポーランド王ヤン3世(ソビエスキ)がウィーン救援に赴いた。

  • 1701年、スペインの王位の継承をめぐってスペイン継承戦争が始まった。神聖ローマ帝国においても、バイエルン選帝侯とケルン大司教はフランスと組んで皇帝と戦っている。皇帝を支援したプロイセンは公国から王国となった。

  • 1740年、マリア・テレジアによるハプスブルク家の継承をめぐってオーストリア継承戦争が始まった。結果的には彼女によるハプスブルク家領の継承が認められ、彼女の夫であるフランツ1世が神聖ローマ帝国の皇帝となった。

  • 1756年、ザルツブルクにモーツァルトが誕生。

  • 1806年、フランス皇帝ナポレオンの影響下にライン連邦が成立。ハプスブルク家のフランツ2世は皇帝を退位し、神聖ローマ帝国の解体を宣言した。フランスと連携していたバイエルンとザクセンは王国となった。


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