東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記「旧東ドイツの旅」

h3. ドイツ騎士団とプロイセン公国 6世紀から17世紀

略年表 ドイツ騎士団とプロイセン公国 6世紀から17世紀

  • 6世紀から7世紀、現在の東ドイツの領域、エルベ川の流域にはスラヴ系の人々が定着していた。

  • 928年、ザクセン系の東フランク(ドイツ)王ハインリヒ1世が現在のブランデンブルクに進出。

  • 948年、ハインリヒ1世の息子でドイツ王となったオットー1世がブランデンブルク地域を征服。

  • 983年、エルベ川流域のスラヴ人が反乱を起こした。

  • 1190年、アッコンにおいて「ドイツ人の聖母マリア病院修道会」が組織された。これが後に「ドイツ人の聖母マリア騎士修道会」、すなわちドイツ騎士団(あるいはチュートン騎士団」)となる。

  • 1191年、ツォレルン家(後にホーエンツォレルン家となる、以後はホーエンツォレルン家と記す)のフリードリヒ1世がニュルンベルク城伯となった。

  • 12世紀、ザクセン公ハインリヒ3世(獅子公)が再びブランデンブルクを征服。

  • 1153年、スラヴ人がブランデンブルクを奪還。

  • 1157年、アスカニア家がブランデンブルクを支配し、ブランデンブルク辺境伯を称した。同家はブランデンブルクへのドイツ人の移住・入植を進めた。

  • 1189年から1190年、第3回十字軍の遠征の際、アッコンの郊外で野戦病院が営まれ、それが後にドイツ騎士団(「聖母マリア病院のチュートン騎士団」)の母体となった。

  • 1226年、異教徒であるスラヴ系プロイセン人の征服とキリスト教化にてこずったポーランドのマゾヴィエン公コンラート1世が、領地の提供と引き換えにドイツ騎士団を招いた。

  • 1230年9月、教皇グレゴリウス9世の勅許を得たドイツ騎士団は、プロイセンに進出。ポーランドとの国境に近いクリム地方が騎士団に与えられた。以後、ドイツ騎士団は、軍事力を使ってスラヴ系プロイセン人のキリスト教化を推し進めた。

  • 1241年から1252年、スラヴ系プロイセン人の大蜂起。

  • 1242年4月5日、バルト海沿いに東に進出したドイツ騎士団が、「氷上の戦い」においてノヴゴロド公アレクサンドル・ネフスキーに敗北。

  • 1260年から1283年、再びスラヴ系プロイセン人が蜂起。

  • 1280年、ドイツ騎士団の本拠となるマリエンブルク城が完成。

  • 1320年、アスカニア家が断絶し、バイエルンのヴィッテルスバハ家がブランデンブルク辺境伯領を継承した。

  • 1356年、ブランデンブルク辺境伯が選帝侯とされた。

  • 1410年7月15日、タンネンベルクの戦いに於いて、ドイツ騎士団軍がポーランド・リトアニア連合軍に敗北。

  • 1415年、ホーエンツォレルン家(フランケン系)のニュルンベルク城伯フリードリヒ6世がブランデンブルク選帝侯となった。

  • 1448年、ホーエンツォレルン家のブランデンブルク選帝侯の宮廷がベルリンに置かれた。

  • 1454年、一部の貴族と都市が、ポーランド王の支援を得て、ドイツ騎士団の支配に対して反乱を起こした。

  • 1457年、ドイツ騎士団のマリエンブルク城が反乱軍の前に陥落。

  • 1466年、トルンの和約が成立。ドイツ騎士団はポーランド王の宗主権の下に入った。

  • 1511年、ホーエンツォレルン家のアルプレヒト・フォン・ブランデンブルクがドイツ騎士団の総長に就任した。

  • 1514年、ホーエンツォレルン家出身の枢機卿アルプレヒトが、マインツの大司教職を得た。そのために彼はフッガー家から多額の借入をしており、その返済の為に贖宥状の発行を計画した。

    1513年に教皇となっていたメディチ家のレオ10世は、贖宥状収益の半分をローマに送ることを条件に、アルプレヒト枢機卿の計画を承認した。

    フッガー家により取り仕切られたアルプレヒト枢機卿の贖宥状発行事業の収益金は、その半分がローマに送られ、残りはフッガー家に対する借入の返済に充てられた。これがやがてルターの宗教改革を誘発する。

  • 1525年、ドイツ騎士団総長であるホーエンツォレルン家のアルプレヒト・フォン・ブランデンブルク=アンスバハがルター派に改宗したことが契機となり、ドイツ騎士団は世俗化しプロイセン公国となった。

  • 1618年、プロイセン公国のホーエンツォレルン家が断絶し、同じホーエンツォレルン家のブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントがプロイセン公国を相続した。ここに両国の同君連合が成立した。

  • 1660年、ポーランドとスウェーデンとの間の戦いに乗じて、プロイセンに対するポーランドの宗主権を排し、プロイセン公国は主権を獲得。

  • 1685年、ポツダム勅令が発せられ、フランスのユグノーの移住を受け入れた。その結果、人口の増加、技術の流入がもたらされた。その年、太陽王ルイ14世のフォンテーヌブローの勅令によって、フランスにおいてユグノーに対する弾圧が強まったことに対応するものだった。

  • 1699年、ベルリンにおいてシャルロッテンブルク宮殿の建設が始まった。この宮殿はプロイセン公位、王位、そしてドイツ皇帝位を継承するホーエンツォレルン家の宮殿となった。

  • 1701年、スペイン継承戦争が始まった。この戦いでハプスブルク家の皇帝を支援したプロイセン公国が王国とされた。


次のページは
「h4. プロイセン王国とナポレオン戦争 18-19c初」




ヨーロッパ三昧 トップ・ページ

ヨーロッパの歴史風景

このサイト「ヨーロッパ三昧」には、下の姉妹サイトもあります。ヨーロッパに興味のある方は寄り道してくださいね。

ヨーロッパの歴史風景 バナー このサイト「ヨーロッパ三昧」の姉妹サイト「ヨーロッパの歴史風景」。ヨーロッパ各国の歴史に重点を置いてある。



Copyright (c) 2001-2017 Tadaaki Kikuyama
All rights reserved
このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。

このサイトの運営は、あちこち三昧株式会社が行います。