東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

スコットランド周遊

1994 年 8 月

「グレンコーの悲劇」

ジャコバイト

1688 年、スチュワート家の王ジェームズ 2 世(スコットランド王としてはジェームズ 7 世)が廃位され、オレンジ公ウィリアムが王位を得た。

王位回復を目指すスチュワート家。スコットランドのクランの一部はスチュワート家を支持してジャコバイトと呼ばれたが、ウィリアム 3 世の政府を支持してウィリアマイトと呼ばれたクランも少なくなかった。

スコットランドにおいてウィリアム 3 世を支持したのは、一般的にはローランドのプロテスタント(後に「長老派」と呼ばれる新教の一派を支持する人々)だった。他方、ハイランドでは、カトリックを支持するクランが多かった。

1689 年のボニー・ダンディーの反乱の際にハイランドの勢力に苦戦した政府軍は、ハイランドのクランを放置しておくことが出来ないと考えた。

忠誠の誓い

ウィリアム 3 世の政府でスコットランド問題を担当していたジョン・ダルリンプルは、全てのハイランドのクランの長に対して、ウィリアム 3 世への忠誠を誓うように要求した。

指示に従い、グレンコーに住むマクドナルド一族(分家)の長マクイアンは、フォート・ウィリアムに出頭した。

ところが、彼が忠誠を誓うべき場所はフォート・ウィリアムではなくインヴェララリーであり、そちらへ向かうようにと政府の役人は言う。しかし、冬のさなかのこと。マクイアンが宣誓の場所に辿り着いたときには、宣誓の期限を過ぎてしまった。

(フォート・ウィリアムへ行くようにという当初の指示は、マクイアンを陥れようというジョン・ダルリンプルの罠だったとする説もある。)

ある任務

マクイアンの宣誓を受けるべき地方判事自身も、約束の期限までに到着することが出来なかった。判事はマクイアンよりも遅れて現地に到着したほどである。そして、マクイアンのウィリアム 3 世に対する忠誠の誓いは、期限を数日過ぎた日付のものとなった。

ジョン・ダルリンプルは、期限に遅れたマクイアンの忠誠の誓いは無効だと判断した。彼は、ロバート・キャンベルに「任務」を与えた。

(ダルリンプルは、スチュアート朝時代にジェームズ 2 世と親しくなり、その治世下で頭角を現している。当時のダルリンプルはカトリックだった。

しかし、ジェームズ 2 世が廃位され、新教徒のウィリアム 3 世の治世が始まると、ダルリンプルは新教に鞍替えしている。彼の人柄は定かではないが、少なくとも馬鹿を見るような正直者ではなさそうだ。)




虐殺

1692 年 2 月 2 日、ロバート・キャンベルの部隊がグレンコーに到着。マクイアンを長とするマクドナルド一族は、ハイランド出身の兵士で構成されたキャンベルの部隊を歓迎した。

(キャンベル一族もスコットランドのクランである。クランの族長同士は婚姻により縁を重ねていた。従い、グレンコーのマクドナルド家とロバート・キャンベルも縁続きの関係と言えるらしい。)

グレンコーに滞在していたキャンベルの部隊の兵士達は、 2 週間近くにわたり、飲み、食べ、ダンスを楽しんだ。全てマクドナルド一族が提供したものである。

そして 1692 年 2 月 13 日未明、兵士達はマクドナルド一族の人々に襲いかかった。女性や子供も含めて ... 。一部の人々は雪の中を逃走した。しかし、38 名が犠牲になったといわれている。

論争

この事件は、未だに過去のものではない。少なくともマクドナルド一族の子孫にとっては ... 。彼らの中には、「グレンコーの虐殺」は、ウィリアム 3 世、ジョン・ダルリンプル、そしてキャンベル一族による犯罪だと糾弾し続けている人もいる。

対するキャンベル家の方では、グレンコーの虐殺に関して、口を閉ざしているようだ。あるいは、次のような消極的な反論を行うに過ぎない。

  • 虐殺は歴史のひとコマにすぎない。
  • キャンベルは、ウィリアム 3 世の政府の命令に従っただけだ。
  • 事件は軍事行動として行われたものであり、犯罪ではない。

【参考】都市別ツアー


【参考】ホテル検索



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