東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記「イタリア北部の旅」

16. ピサのドゥオモ(大聖堂)

ピサのドゥオモ(大聖堂)

中東に起こったイスラム教はアフリカ北岸を西に向かって広がり、やがて西暦711年にはイスラム教徒がイベリア半島を征服し、一時はフランス南部コート・ダジュールにまで進出している。その後、陸路での進出は阻まれたけれども、地中海はイスラム教徒の勢力下に置かれ、イタリアなどのキリスト教諸国はイスラム艦隊の襲撃を怖れる時代が続いていた。

しかし、地中海においてキリスト教徒も反撃を始める。まずは西暦849年にキリスト教徒連合艦隊がオスティアの戦いに勝利を得た。そして西暦1063年、ピサの艦隊がシシリアの沖合いでイスラム教徒の艦隊を撃ち破った。その勝利を記念して建設が始まったのが、ピサのドゥオモ(大聖堂)だった。ちなみに戦いの戦利品は工事の財源にもなったんだそうな。

ピサのドゥオモ広場に並ぶドゥオモ(大聖堂)とピサの斜塔(イタリア)

上の画像に見えているのが、ピサのドゥオモ(大聖堂)だね。その奥にはピサの斜塔も見えているけど、その斜塔はドゥオモ(大聖堂)の鐘塔として築かれたものなんだそうな。今では斜塔の方が世界遺産ドゥオモ広場の主役になっている感もあるけどね。

西暦1272年に完成したと言われるこのドゥオモ(大聖堂)は、ロマネスク様式の建物だとされている。でも、ビザンティン風の要素を含め、その他の様々な建築様式も取り入れているんだそうな。

ピサのドゥオモ(大聖堂)の内部

そんなピサのドゥオモ(大聖堂)の中の様子が下の画像なんだ。建物はロマネスク様式を基本としているけれども、内装にはビザンティン風の要素が強いんだそうな。

ピサのドゥオモ(大聖堂)の内部とジョヴァンニ・ピサーノの説教檀(イタリア)

上の画像の中央に見えているのは、彫刻家ジョヴァンニ・ピサーノによる説教檀。西暦1302年から1310年にかけて制作されたらしい。この説教檀の彫刻は新約聖書の物語から九つの場面を描いているとか。

ちなみに、この説教檀の制作に着手する前の彼は、シエナのドゥオモ(大聖堂)の建設責任者となっていたらしい。シエナのドゥオモ(大聖堂)では、正面ファサードを飾るキリストの使徒たちの彫像を制作したんだそうな。ついでながら、ペスト(黒死病)による衰退などにより、シエナのドゥオモ(大聖堂)は未完成のままで今に至っている。

ガリレオの振り子の法則

ピサ生まれの学者ガリレオ・ガリレイの振り子の法則とは、「振り子の長さなどが一定の場合、振り子の揺れるスピードが速くても遅くても、振り子の往復に要する時間の長さは同じ」というものらしい。

ピサのドゥオモ(大聖堂)の内部と天井から下がるランプ(イタリア)

上の画像の中で、ピサのドゥオモ(大聖堂)の天井から吊り下げられているランプが見えるよね。ガリレオはこのランプの揺れを見て振り子の法則を見出したとの話もある。でも、これは実話ではないらしい。ピサの斜塔から二つの球を落とす実験をしてガリレオが落下の法則を導いたという話も同様だったけどね。

カンポサント(納骨堂あるいは墓所)

ドゥオモ(大聖堂)の脇にあるのが、カンポサント(納骨堂あるいは墓所)。下の画像に見えるように、無数のアーチを持つ回廊とその中の庭園が印象的なんだ。

ピサのドゥオモ(大聖堂)の脇にあるカンポサント(納骨堂あるいは墓所)の回廊(イタリア)

このカンポサントはジョヴァンニ・ディ・シモーネの設計により、13世紀から15世紀にかけて建設されたんだそうな。回廊の壁は14世紀のフレスコ画で飾られていたらしい。

ところが、第二次世界大戦中の空襲で、フレスコ画は焼失してしまったんだそうな。西暦1943年にイタリア本土に上陸した連合国軍は、翌年にはローマを攻略したんだけど、北上中にイタリア各地を空爆していたんだそうな。古代や中世の遺跡・建物が無数に残るイタリアなんだけど、実は戦争の傷跡も各地に残っているんだね。


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