東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記「マルタ 聖ヨハネ騎士団の島」

05. ヴァレッタ散策 -2. (マルタ)

ヴァレッタの街角の聖母子

聖ヨハネ大聖堂から閉め出されてしまった。入口を閉めるから出て行って欲しいって。17時だからね。無理もない。

ヴァレッタの街角の聖母子像(マルタ共和国)

というわけで、マルタ共和国の首都ヴァレッタの散策を再開したんだけど、街角で見かけたのが上の画像の聖母子像。マルタの人々の殆どは熱心なカトリックだからね。そんなこともあって、この国ではずっと離婚も許されていなかったんだそうな。(ところが、西暦2011年に国民投票の結果として離婚も可能になったらしいよ。)

ヴァレッタの先端にある聖エルモ城砦

向かったのは、かつての聖ヨハネ騎士団の騎士団長宮殿。今はマルタ共和国の大統領官邸と国会議事堂になっている。でも、中に入ることはできなかった。ま、日をあらためてまた来ることにしよう。

更に歩いてやってきたのは、要塞都市ヴァレッタのあるシベラス半島の先端の聖エルモ城砦だった。西暦1565年のオスマン・トルコ軍の攻囲(グレート・シージ)の際、この聖エルモ城砦は陥落するまで1ヶ月近くも耐え抜いたらしい。それが聖ヨハネ騎士団の勝因の一つになったともされているんだ。

ヴァレッタのあるシベラス半島の先端の聖エルモ城砦の堀(マルタ共和国)

上の画像はそんな聖エルモ城砦の守りを固める堀の様子。もちろん、要塞都市ヴァレッタの建設の際に再建され、強化されたものだけどね。そんな聖エルモ城砦の入口も閉まっていた。ここも明日か明後日にはまた来なきゃね。

余談ながら、この聖エルモ城砦は第2次世界大戦の際にはドイツ軍・イタリア軍によって空爆されている。16世紀においても20世紀においても軍事上の要衝なんだね。

ヴァレッタをにらむドラグート・ポイント

16世紀の地中海で活躍したイスラムの海賊の一人にドラグート(あるいはトゥルグト・レイス)がいた。スルタンの信頼も厚く、名高いバルバロッサ亡き後のオスマン・トルコの地中海艦隊の司令官とされた人物だった。

ヴァレッタのあるシベラス半島の先端の聖エルモ城砦のすぐ向こうにあるティニエ岬(マルタ共和国)

そんな海賊にちなんで、ドラグート・ポイントと呼ばれているのが上の画像なんだ。このドラグート・ポイントは聖エルモ城砦のすぐ西にあるティニエ岬の先端にある。西暦1565年、オスマン・トルコ軍に参加していた海賊ドラグートはここに大砲を並べ、聖エルモ城砦を攻撃したらしい。

ところが、聖ヨハネ騎士団の砲弾の破片が海賊ドラグートに当たり、重傷を負った彼はやがて亡くなってしまった。もし彼が生きていたら、もし彼がオスマン・トルコ軍の総司令官だったら、マルタ島はオスマン・トルコの手に落ちていたかもしれなかった。

要塞都市ヴァレッタの堀

シベラス半島の先端から南下し、アッパー・バラッカ公園に向かった。ところが、ここも入口が閉まっている。夕方だから・・・、というよりも、中で何かのイベントが行われているみたい。

今日は観光はここまでだね。ホテルのテラスのバーでビールを飲んで時間を無駄にしちゃったかな。ホテルに荷物を放り込んですぐにヴァレッタを歩き始めれば、もうちょいと観光できたかもしれないけどね。

要塞都市ヴァレッタのゲート付近の堀(マルタ共和国)

最後にやって来たのが、要塞都市ヴァレッタの南側(陸側)の守りを固めるゲート付近。そこで見た堀の様子が上の画像なんだ。西暦1565年のオスマン・トルコ軍の攻囲は撃退したけれども、必ず再び攻めてくると確信していた騎士団長ヴァレットは、可能な限り守りを固めようとしたわけだね。

さて、今日のヴァレッタ観光はここまでだね。そろそろホテルに戻るか。レストランで久々のマルタ料理とワインを楽しむとしよう。


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