ピョートル1世(大帝)
- 1682年5月、10歳のときにツアー(ロシア皇帝)として即位。但し、異母兄イヴァン5世と同格の共同統治者にすぎず、しかも異母姉ソフィアが摂政として実権を握っていた。ピョートル1世は、知識欲が旺盛で戦争ごっこの好きな少年だったが、皇室内では軽んじられていた。
- 1689年9月、ピョートル1世がクーデターを起こした。共同皇帝イヴァン5世を退位させ、摂政ソフィアを修道院に幽閉し、実母ナターリアに国制を任せた。
- 1694年、実母ナターリアの死により、ピョートルが親政を開始。
- 1696年、変名を使って外遊。オランダやイギリスで航海技術を学び、オーストリアやポーランドを訪れた。
- 1698年、軍の一部が反乱を起こした。ピョートルは帰国し、軍の再編と粛清を行った。
- 1700年、トルコとの和平が成立。後顧の憂いを片付けたピョートル大帝は、ポーランド・デンマークと同盟し、スウェーデンとの戦い(「北方戦争」)を開始した。しかし、ナルヴァの戦いに於いて、4万のロシア軍が 8千のスウェーデン軍に敗れた。
- 1703年、スウェーデン軍を破り、ネヴァ川の河口付近を確保した。彼はそこにロシアの新しい首都サンクト・ペテルブルクの建設を命じた。
- 1709年、ポルタヴァの戦いでスウェーデン軍を撃破。敗れたスウェーデン王カール12世はトルコに逃れた。他方、軍事力を拡大し急進的な改革を行うピョートルに対して、国内では反乱が頻発していた。
- 1710年、スウェーデン王カール12世の説得に応じたオスマン・トルコがロシアに戦いを仕掛けた。
- 1711年、トルコに大敗を喫したピョートルは、アゾフを放棄して講和。ロシアは黒海への進出を断念せざるを得なくなった。
- 1713年、ロシア艦隊がスウェーデンを破り、ロシアはバルト海沿岸で勢力を拡大した。
- 1714年、貴族階級の再編を行った。
- 1716年、ピョートル大帝の2度目の外遊。プロシア・オランダ・フランスなどを歴訪した。
- 1721年、スウェーデンとの間でニスタットの和約が成立し、バルト海の勢力図はロシアに有利に確定した。ロシアの元老院は、「インペラトール(皇帝)」と「ヴェリーキー(大帝)」の称号をピョートルに捧げた。
- 1723年、ピョートルはカスピ海に大軍を派遣し、バクーなどを占領した。
- 1725年、ピョートル大帝が過労の果てに死去。
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