東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
サンクト・ペテルブルクの旅(ロシア)
1999年8月
アレクサンドル・ネフスキー
サンクト・ペテルブルクのメイン・ストリートはネフスキー通り。その通りの東の端には、アレクサンドル・ネフスキー修道院がある。
メイン・ストリートと修道院の名前は、ロシアの歴史上の人物に因んだものだ。その人物はノヴゴロド公アレクサンドル・ネフスキー。ロシアの英雄にして正教の聖人でもある。
アレクサンドル・ネフスキー 略年表
- 13世紀のこと、カトリックと袂をわかって既に久しい正教陣営に対して十字軍を送ることを、法王グレゴリウス9世が決定した。
- 1240年、スウェーデン軍はネヴァ川周辺に侵攻した。西進するキプチャク(金帳)汗国のバトウがロシア諸侯を脅かしており、しかもノヴゴロド公アレクサンドル・ヤロスラフスキーが市民や貴族と対立していたのをチャンスと見ての侵攻だった。
しかし、同年7月15日、ノヴゴロド公アレクサンドルはネヴァ川付近でスウェーデン軍を撃ち破った。その時から、彼はアレクサンドル・ネフスキー(ネヴァ川のアレクサンドル)と呼ばれることとなった。
- その後、アレクサンドルとノヴゴロドの市民・貴族は再び対立し、アレクサンドルはノヴゴロドを追放された。
- しかし、デンマークとドイツ騎士団を中心とするカトリック勢力が西から侵入し、ノヴゴロドとフィンランド湾との間に勢力を拡大し始めた。脅かされたノヴゴロドの市民・貴族は、アレクサンドルと和解せざるを得なくなった。
- 1242年4月5日、カトリック勢力に対して反撃を開始したアレクサンドルは、チュード湖における「氷上の戦い」に於いてドイツ騎士団を撃ち破った。
その結果、カトリック勢力の東進は現在のロシアとエストニアの国境付近で停止することとなった。
- 1263年、ロシアの英雄ノヴゴロド公アレクサンドル・ネフスキー死去。ギリシア正教は彼を聖者とした。
- 1712年、アレクサンドル・ネフスキーを信奉するピョートル1世(大帝)は、彼が築いた新しい都サンクト・ペテルブルクにアレクサンドル・ネフスキー修道院を建てた。
- 1722年、ピョートル1世は、アレクサンドル・ネフスキー勲章を新設した。
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