東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記 「アンダルシアの古都めぐり(スペイン)」

セビリア、コルドバ、グラナダを見て歩いた旅

06. コルドバのメスキータ -1. 後ウマイヤ朝の大モスク

後ウマイヤ朝の古都コルドバのメスキータ

旅の3日目の朝。ホテルのレストランの朝食は美味しい。でも、そろそろロンドンパブイングリッシュ・ブレックファストが恋しくはあるけど ・・・ 。ともかく、後ウマイヤ朝の古都コルドバの朝。今日も良い天気で青空が広がっているのが有り難いよね。

スペイン南部アンダルシア地方の後ウマイヤ朝の古都コルドバのメスキータの免罪の門塔

今日の最初の目的地は、世界遺産となっている古都コルドバの歴史地区の中心を占めるメスキータ。上の画像に見えているのは、メスキータの脇に立つ免罪の門塔なんだ。あの塔の下にメスキータがあるわけだ。

イスラム教徒のモスクだったコルドバのメスキータ

2000年ほど昔、このあたりが古代ローマ帝国の支配下にあった頃、この土地にはローマの神殿があったんだそうな。その後、ガリアでフランク王国に敗れた西ゴート王国はイベリア半島(今のスペインとポルトガル)を制圧したんだけど、彼らはこの土地に聖ヴィアンテ教会を建てている。

ところが、西暦711年には北アフリカからイスラム教徒がイベリア半島に侵入し、西ゴート王国は崩壊。やがて西暦756年にはイベリア半島に後ウマイヤ朝が成立し、彼らが首都としたのが今のスペイン南部アンダルシア地方の古都コルドバだった。

コルドバを征服したイスラム教徒は、西ゴート王国時代の聖ヴィアンテ教会をモスクとして使い始めた。やがて聖ヴィアンテ教会は取り壊され、西暦785年に新たにイスラム教徒のモスクとして建設されたのが、今のメスキータなんだそうな。ちなみに、「メスキータ」という言葉はスペイン語でモスクを意味するらしい。

スペイン南部アンダルシア地方の後ウマイヤ朝の古都コルドバのメスキータの外壁

上の画像が古都コルドバのメスキータの外壁なんだけど、どことなく昔の中華料理店のラーメンの器の模様を思い出すよね。どちらもイスラムの唐草模様に似ているもの。スペイン南部アンダルシア地方の古都コルドバのメスキータは、シルク・ロードを通じてラーメンと関係していたのか。それとも単に私が空腹だからそんなことを考えるのか。

何度も拡張された古都コルドバのメスキータ

後ウマイヤ朝の頃、8世紀末にとりあえずの完成を見た古都コルドバのメスキータ。でも、ますます発展する都市コルドバの人口は増え続けた。10世紀の終わりにはコルドバの人口は50万人を突破し、当時の世界では最大の都市になったんだそうな。

スペイン南部アンダルシア地方の後ウマイヤ朝の古都コルドバのメスキータの内部

それほどの大都会の人々が祈る場所として、コルドバのメスキータは何度も増築され、拡張されたらしい。スペイン北東部カタルーニャ地方の街バルセロナを占領したこともある後ウマイヤ朝末期の実力者アル・マンスールもこのメスキータの拡張を行っている。最終的には数万人の人々が祈りを捧げることができるモスクになったんだそうな。(上の画像は今の古都コルドバのメスキータの内部の様子。)

メスキータを支える円柱の森

そんな大規模な建物の天井を支えているのが850本を越える円柱なんだそうな。下の画像がそんな円柱なんだけど、その数の多さから「円柱の森」とも呼ばれている。

スペイン南部アンダルシア地方の後ウマイヤ朝の古都コルドバのメスキータの内部にある円柱の森

そんな円柱の上に見える赤白の二重アーチも印象的だよね。でも、この二重アーチは苦肉の策として用いたものだった。

メスキータに見る無数の円柱はあちこちからの寄せ集めだった。古代ローマ帝国時代の神殿や円形闘技場、西ゴート王国時代の教会などの建物の円柱を流用したらしい。寄せ集めの円柱の長さは当然ながら不揃いだった。不揃いの円柱でメスキータの高い天井を支える為に用いたのが二重アーチだったらしいよ。


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