東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記 「アンダルシアの古都めぐり(スペイン)」

セビリア、コルドバ、グラナダを見て歩いた旅

14. グラナダの王室礼拝堂とカトリック両王

アンダルシアの古都グラナダの王室礼拝堂

スペイン南部アンダルシア地方の古都グラナダの大聖堂を見たら、次は王室礼拝堂だね。下の画像がその王室礼拝堂の入り口なんだ。

スペイン南部アンダルシア地方の古都グラナダにある王室礼拝堂の入り口

この古都グラナダの王室礼拝堂の建設が始まったのは西暦1505年のこと。その完成は西暦1517年というから、ハプスブルク家のスペイン王カルロス1世(やがて皇帝カール5世)が即位して間もなくの頃だね。

カルロス1世はこの古都グラナダの王室礼拝堂を王家の墓所とするつもりだったらしい。パリ郊外にあるサン・ドニ大聖堂がフランス王家の墓所だったようにね。でも、彼の息子のスペイン王フェリペ2世は、マドリッド郊外にあるエル・エスコリアルを王家の墓所としたらしい。

イスラム教徒のナスル朝グラナダ王国を陥落させたカトリック両王

西暦711年にアフリカ北部からジブラルタルを経て侵攻したイスラム教徒は、古都トレドを本拠としていた西ゴート王国を滅ぼし、スペインのほぼ全土を征服し、更には今のフランス南部プロヴァンス地方にも侵入し、コート・ダジュールのエズまでも征服するほどだった。

ところが、スペインに残ったキリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)に次第に押され、西暦1085年にはカスティーリャ王アルフォンソ6世によって古都トレドを奪還され、西暦1236年には後ウマイヤ朝古都コルドバが奪還され、西暦1248年にはヒラルダの塔で名高いセビリアも陥落してしまった。

スペインに残ったイスラム教徒勢力は、アルハンブラ宮殿で名高いグラナダ王国だけとなったわけだ。スペイン各地から逃れてきたイスラム教徒の学者・芸術家・技術者・軍人などに支えられ、他方でカスティーリャ王国やアラゴン王国などのキリスト教徒陣営の中での争いにも助けられ、グラナダ王国は存続を保ってきたわけだ。

ところが、15世紀も終わりに近づいた頃、そんな状況に大きな変化が生じた。アラゴンの王子とカスティーリャの王女が結婚し、やがて各々に王と女王となり、その結果としてキリスト教徒陣営が結束したというわけだ。他方で、イスラム教徒のグラナダ王国においては、王家の中で争いが起こっていたんだ。

スペインのキリスト教徒陣営は西暦1482年からグラナダ王国に対する攻勢をかけ、その領土を少しづつ奪い取っていった。そして西暦1491年、最後の残った古都グラナダがキリスト教徒軍によって包囲された。イスラム教徒たちは1年近く籠城した。でも、援軍が来るわけでもない。結局、西暦1492年の年明けに古都グラナダは開城し、スペインにおけるイスラム教徒の最後の王国が滅びたわけだ。

スペイン南部アンダルシア地方の古都グラナダにある王室礼拝堂で見た騎馬像

そんな古都グラナダの王室礼拝堂の祭壇の中にあったのが、上の画像にある騎馬像なんだ。騎馬の戦士が踏みつけているのは、イスラム教徒の兵士みたい。その騎馬の戦士は、アラゴン王フェルナンド2世(カスティーリャ王としてはフェルナンド5世)だね。

ちなみに、アメリカを発見したコロンブスの出航はグラナダ陥落の7ヵ月後のことだった。フェルナンド2世の奥さんのカスティーリャ女王イサベル1世が支援をした結果だよね。こうして、西暦1492年にはスペインのレコンキスタ(国土回復運動)が完了し、新大陸が発見され、スペインが黄金時代を迎える準備が整いつつあったんだね。

王室礼拝堂にあるカトリック両王の墓

そんな追い風のスペインを統治するカトリック両王だったけれども、西暦1497年には王太子フアンが19歳で亡くなってしまった。それ以後、カスティーリャ女王イサベラ1世は次第に元気を失っていったらしい。

そんな女王イサベラ1世と夫のアラゴン王フェルナンド2世は、死後にはアンダルシアの古都グラナダに埋葬されることを望んだんだそうな。それが西暦1504年9月のこと。女王イサベラ1世が亡くなったのは、その2ヵ月後のことだった。

スペイン南部アンダルシア地方の古都グラナダにある王室礼拝堂で見たカトリック両王の墓

スペインのカトリック両王の残る一人となったアラゴン王フェルナンド2世は、西暦1516年に亡くなった。その後のスペインはカトリック両王の孫のハプスブルク家のスペイン王カルロス1世(後の皇帝カール5世)が統治し、やがて完成した古都グラナダの王室礼拝堂にカトリック両王のお墓(上の画像)が設けられたわけだ。

ちなみに、マキャベリは著書「君主論」においてアラゴン王フェルナンド2世のことを優れた君主として評価しているね。

カトリック両王の後継者となった女王フアナ

西暦1504年にカスティーリャ女王イサベラ1世が亡くなり、西暦1516年にアラゴン王フェルナンド2世が亡くなり、その後はカトリック両王の孫に当たるカルロス1世(カール5世)がスペイン王となった ・・・ とされることが多いみたい。でも、正確に言えば、カトリック両王が亡くなった後にカスティーリャとアラゴンの王位を継承したのは、二人の娘にあたる女王フアナだった。

でも、女王フアナは精神的に病んでいたとされる。故に、その息子が生まれ育ったかつてのブルゴーニュ公国領ネーデルラントから呼ばれて、スペイン王(正確には女王フアナの共同統治者あるいは代行者)となったわけだ。それがカルロス1世(カール5世)だね。

スペイン南部アンダルシア地方の古都グラナダにある王室礼拝堂で見たカトリック両王の娘の女王フアナの墓

精神を病んでいた女王フアナが亡くなり、古都グラナダの王室礼拝堂に埋葬された(上の画像が女王フアナのお墓)のは、西暦1555年のことだった。つまり、あのスペインの黄金時代の君主カルロス1世(カール5世)が正式に単独で王となったのは西暦1555年のことなんだね。実質的には祖父のアラゴン王フェルナンド2世が亡くなった西暦1516年から彼が君主として統治していたんだけど。

ついでながら、この女王フアナの妹でイギリスの歴史に印象的な足跡を残している人物がいる。それがテューダー家のイングランド王ヘンリー8世の奥さんとなっていたキャサリンだった。やがてヘンリー8世は王妃キャサリンと離婚してアン・ブーリンとの再婚を望み、とうとうローマ教皇と訣別して英国国教会を設立しちゃうわけだ。

というわけで、スペイン南部アンダルシア地方の古都めぐりの旅で、イギリスにまで話が飛んでしまった。私たちもそろそろホテルに戻る時間だ。バスに乗ってマラガ空港に向かい、そこから飛行機でロンドンに戻るということになる。明日はシティのオフィスで仕事だ。そして旅の後のいつものお約束の通り、お昼はオフィス近くのパブイングリッシュ・ブレックファストだね。


旅行記「春のスペイン」
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