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東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅
冬景色のトルコ
(1997年12月 - 1998年1月)
20. ケマル・アタテュルク廟 (トルコ、アンカラ)
小アジア(アナトリア)の中央に位置するカッパドキアを出発してバスで走り続けること約5時間。トルコの首都アンカラに到着したのは、ちょうどお昼だった。
トルコの首都アンカラ(小アジア)
東ローマ帝国・ビザンティン帝国からオスマン・トルコにかけての首都だったイスタンブールは今でもトルコの商業の中心なんだけど、トルコ共和国の政治の中心は人口400万人の街アンカラにある。
アンカラの歴史(トルコ、小アジア)
- 紀元前8-6世紀、現在のアンカラの地にはフリギア人の集落があった。
- 紀元前4世紀頃、現在のアンカラは「エンギュル」と呼ばれていた。
- 西暦1世紀、ローマを中心とするイタリアから進出してきた古代ローマ帝国の支配下に入ったアンカラは、「アンゴラ」という名で呼ばれた。
- 西暦1134年、ルーム・セルジューク朝がダニシメンド朝からアンカラを奪い取り、その街はやがて「アンカラ」の名で呼ばれるようになった。
- 西暦1923年10月13日、新しい指導者ムスタファ・ケマル・パシャ(後のケマル・アタテュルク)の命により、トルコの都がアンカラに移された。
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アタテュルク廟(トルコ、アンカラ)
アンカラ市内のレストランで昼食を済ませた私達は、アタテュルク廟(右の画像)を訪れた。
この立派な廟は、1938年に亡くなったトルコの英雄ケマル・アタテュルクの為に建てられたもの。
「アタテュルク」という言葉は、「トルコの父」を意味している。オスマン・トルコ崩壊後に成立した現在のトルコ共和国の英雄ムスタファ・ケマル・パシャに対して、1934年に与えられた尊称なんだ。
バスの中でガイドのハンさんに聞いた話では、廟に向かってお尻を向けちゃいけないらしい。おかげで上の画像を撮るときにも、気をつかっちゃった。歩くときだって、廟にお尻を向けないようにするもんだから、ときおりカニの横歩きをしちゃった。
廟の周囲には、多くの衛兵が立っている。クルド民族の問題もあるし、警戒を緩めることが出来ないんだろうね。
それにしても、警護の兵士達の引き締まった表情は見事なものだね。これも尚武の国トルコの伝統があるからなんだろうか。
そういえば、同じ遊牧騎馬民族の系統にあるハンガリーで見た英雄広場の衛兵たちも見事に引き締まった表情をしていたなあ。
トルコの英雄ケマル・アタテュルク
(ムスタファ・ケマル・アタテュルク)
アタテュルク廟に眠るトルコの英雄ケマル・アタテュルク(ムスタファ・ケマル・アタテュルク)の顔は、トルコに行けば毎日でも見ることになる。
というのも、トルコのお金や切手(右の画像)には、必ずといってよいほど彼の顔が印刷してあるからね。
このトルコの旅の最後の日の話なんだけど、イスタンブールのアタテュルク国際空港の売店で見かけたのが、右の画像の本。アタテュルクの伝記だね。
この本のカバーを見た瞬間に、私は買う気になったんだ。ところが、出版社を見れば、ロンドンだ。ロンドンの本屋でも買えるかも知れない。でも、無かったらどうするんだ ?? 結局、どうしてもこの本が欲しくて、イスタンブールで買っちゃった。
更に後日談なんだけど、ロンドンの地下鉄でこの本を読んでいた私に話しかけてきた男がいた。トルコ人だったね。東洋人が故国の英雄の伝記を読んでいたのがうれしかったらしいよ。
アタテュルク博物館(トルコ、アンカラ)
アタテュルク廟に併設されているのが、アタテュルク博物館。中には、日本の高松宮殿下がアタテュルクに贈った日本刀などが展示されている。
その他にもアタテュルクが使っていた車や日用品も展示されているんだ。その中で家内が見つけた大発見は、イェーガーのコート。アタテュルクは私と同じくイェーガーの黒のカシミアのコートを愛用していたんだ。なんだか、トルコの英雄ケマル・アタテュルクにますます興味がわいてきた。
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