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東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅
冬景色のトルコ
(1997年12月 - 1998年1月)
略年表 - 10.
オスマン・トルコの落日
- 1853年、ロシア軍がルーマニアに侵入し、クリミア戦争が始まった。
- 1854年、イギリス・フランス・トルコの間に同盟条約が成立した。
- 1855年、クリミアにおいてイギリス・フランス連合軍とロシア軍が戦火を交えた。
- 1856年、パリ条約によりクリミア戦争が終結した。
- 1862年、モルダヴィアとワラキアが統合され、ルーマニアが誕生した。
- 1866年、ギリシャへの帰属を求めるクレタ島の人々が反乱を起こした。
- 1870年、ブルガリアが成立。
- 1876年、憲法発布。アジア最初の議会制立憲政治がオスマン・トルコにおいて始められた。
ちなみに、大日本帝国憲法の発布は1889年のこと。
- 1876年、スルタンに即位したアブドゥル・ハミト2世の専制政治が始まった。
- 1878年、サン・ステファノ条約により、自治権を持つブルガリア公国が成立。また、オスマン・トルコ支配下にあったキプロス島がイギリスに譲渡された。
キプロス島リマソルのミナレット(尖塔)
右下の画像は、キプロス島の街リマソルで見かけたミナレット(尖塔)。
かつてギリシャ人の島だったキプロス島には、1571年のオスマン・トルコによる占領後、多くのトルコ人が移り住んできた。キプロス島がイギリスの手に渡った後も、トルコ人は島に残った。
キプロスがイギリスから独立した後、キプロス島に住むギリシャ人とトルコ人との間には、深刻な対立が続いている。
キプロス島の歴史(16世紀から20世紀)も参考になります。
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同年6月、ドイツのベルリンにおける会議により、ブルガリアの領土が縮小され、他方セルビアとルーマニアの独立が承認された。
- 1891年、トルコの近代化を主張する青年トルコ党が結成された。
- 1895年、ドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム2世がイスタンブールを訪問した。
- 1897年、クレタ島において発生したギリシャ人の虐殺に反発したギリシャが介入し、トルコがギリシャに宣戦を布告した。
翌年、クレタ島はオスマン・トルコの宗主権の下で独立国となった。
- 1908年、青年トルコ党の革命により、アブドゥル・ハミト2世の専制政治が幕を閉じ、第2次立憲政治が始まった。
オスマン・トルコにおいて生じた混乱を利用して、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴビナを併合し、ブルガリアは王国として完全な独立を宣言した。
- 1911年、イタリアがエーゲ海のロードス島とドデカニソス諸島を占領した。
- 1912年、第1次バルカン戦争。オスマン・トルコから独立した諸国が同盟し、トルコに侵入した。トルコはエディルネ(アドリアノープル)などを失い、そのヨーロッパ側の領土は著しく縮小した。
- 1913年、第2次バルカン戦争。トルコから奪い取った領土の分配をめぐり、戦争が起こった。その機会を利用して、トルコはエディルネ(アドリアノープル)を奪い返した。
他方、オスマン・トルコの宗主権の下で独立国となっていたクレタ島がギリシアに統合された。
- 1914年、オスマン・トルコがドイツ側に立って第一次世界大戦に参戦した。
- 1918年、スルタンとして即位したばかりのメフメット6世が連合国に降伏し、やがてトルコにとって極めて不利なセーヴル条約に調印した。
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