古都ディジョンのサン・ベニーニュ大聖堂ここでちょいとディジョンのホテルに戻る。あらためてチェック・インを済ませ、部屋に入り、買い物の成果を部屋に置いて、再び出発。
ホテルから歩いて 2-3分のところに、中世ブルゴーニュ公国の古都ディジョンでも長い歴史を誇るサン・ベニーニュ大聖堂(上の画像)があるんだ。
中世ブルゴーニュ公国ゆかりのサン・ベニーニュ大聖堂この古都ディジョンにあるサン・ベニーニュ大聖堂は、中世のブルゴーニュ公国にゆかりの場所でもある。ヴァロワ家系初代のブルゴーニュ公フィリップ・ル・アルディ大胆公(豪胆公)は、ここでブルゴーニュの人々の忠誠の誓いを受けたんだそうな。
ちなみに、フィリップ大胆公の父親はフランス王ジャン2世善良王だった。ジャン2世はフランスの首都パリのシテ島にあるコンシェルジュリーに時計塔を残しているけれども、百年戦争で名高い黒太子(ブラック・プリンス)エドワード率いるイングランド軍の捕虜になり、その首都ロンドンで亡くなったということでも名を残してもいるね。
古都ディジョンのサン・ベニーニュ大聖堂の歴史ところで、このサン・ベニーニュ大聖堂(ディジョン大聖堂とも呼ばれる)なんだけど、中世ブルゴーニュ公国とも深いつながりもある。加えて、大聖堂自体も長い歴史を持っている。そもそもは3世紀にここにキリスト教を伝えたサン・ベニーニュ(聖ベニーニュ)の墓があったんだそうな。サン・ベニーニュは、パリのモンマルトルの丘で処刑されたサン・ドニ(聖ドニ)やイギリスの聖アルバンと同じく伝道者にして殉教者だった。皇帝ネロがローマでキリスト教徒を迫害してから、皇帝コンスタンティヌスのミラノ勅令まで、古代ローマ帝国ではキリスト教を信仰することは命の危険を冒すことだったんだ。 6世紀にはサン・ベニーニュの墓の上に聖堂が作られた。9世紀にはサン・ベニーニュ修道院が設立され、聖堂も再建された。そして10世紀末にはクリュニー修道会から修道院長が派遣され、新しく建てられた聖堂が西暦1017年に聖別されたらしい。 ところが、西暦1137年にディジョンの街が大火に襲われ、サン・ベニーニュ修道院とその付属教会の建物が損傷を受けた。その修復が終わったのが西暦1147年のことだった。西暦1272年には塔が崩れ落ち、建物の他の部分も損傷を蒙った。その再建工事が終わったのが西暦1325年。 それから数百年が経った西暦1789年にはフランス革命が勃発し、その2年後には修道院の財産が没収されている。その際にモン・サン・ミシェル修道院やセナンク修道院と同様にディジョンのサン・ベニーニュ修道院も閉鎖されたわけだ。 その後、閉鎖されたサン・ベニーニュ修道院の付属教会は教区の教会として復活し、西暦1792年にはディジョン司教区の大聖堂とされ、西暦2002年にはディジョン大司教の大司教座大聖堂となったんだそうな。
サン・ベニーニュ大聖堂は中世ブルゴーニュ公国の終焉の舞台上にも書いたように、ヴァロワ家系初代ブルゴーニュ公フィリップ・ル・アルディがブルゴーニュの人々の忠誠の誓いを受け、つまりは中世ブルゴーニュ公国の始まりの舞台となったのが、この古都ディジョンのサン・ベニーニュ大聖堂だった。ところが、このサン・ベニーニュ大聖堂は、そんな中世ブルゴーニュ公国の終焉の舞台ともなったんだ。
西暦1477年、シャルル突進公が戦死してブルゴーニュ公家は断絶する。そして西暦1483年のアラス条約によって旧ブルゴーニュ公国の領地をフランス王家とハプスブルク家が分割したわけだ。そしてフランス王ルイ11世は、古都ディジョンのサン・ベニーニュ大聖堂で人々の忠誠の誓いを受けている。それは中世ブルゴーニュ公国の終焉の儀式だった。
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