チラム城に到着リーズ城から東南に向かって走る。カンタベリーの手前で田舎道に入る。どちらを向いても似たような風景が続く。ホンマにここでおうてんのか ・・・ と不安に思いながら、細い坂道を車で登る。
やがて次の目的地のチラム城という表示のある駐車場に到着。車を降りて森の向こうを見れば、木々の間から茶色の城館が見えた。なるほど、あれがチラム城だな。
チラム城の歴史このチラム城なんだけど、西暦1171年に建設が始まったらしい。建設させたのは、プランタジネット家のイングランド王ヘンリー2世だった。西暦1173年には完成したチラム城に兵士たちを入れたんだそうな。
上の画像は、その12世紀に建てられたチラム城の元々の天守の様子。中には入れないけどね。ちなみに、その城の建設費用は325ポンドだったと記録にあるらしい。現在の貨幣価値でどれほどなのか、全く見当もつかないけどね。 チラム城の庭園、のどかな風景、古戦場このチラム城の城館の中には観光客は入ることが出来ないんだ。但し、城館の一角にあるティー・ルームと土産物などの売店は別だけどね。実はチラム城はその建物ではなく、広い庭園で有名なんだそうな。
上の画像でわかるように、チラム城の庭園の向こうには、のどかな丘の風景が借景のように広がっているでしょ。ところが、この平和な風景の土地が昔の古戦場なんだそうな。 古代ローマ帝国時代からのチラムとノルマン・コンクエストシーザー(カエサル)のブリテン島(イギリス)遠征は永続的なものではなかった。が、西暦43年には古代ローマ帝国の皇帝クラウディウスが軍団をブリテン島(イギリス)に派遣し、西暦75年頃にはブリテン島南部のかなりの部分を支配したらしい。それまでにロンドン、ヨーク、カーナフォンなどの街を建設している。ちなみに、二つ上の画像にあるチラム城の古い天守の基礎は古代ローマ帝国時代のものとも考えられているんだそうな。しかし、古代ローマ帝国は今のスコットランドの国境付近にハドリアヌスの長城(城壁)を築くなどによって、その支配領域の防衛を固めようとした。しかし、ピクト人などの攻勢に苦しみ、やがて古代ローマ帝国の兵士たちはブリテン島(イギリス)から撤退し、このチラムの土地も様々な侵入者の支配に落ちたんだそうな。西暦450年にはデーン人のヴォルティゲルン、西暦486年にはジュート人のヘンギスト、西暦700年にはアングロ・サクソン系のウィトレッドがチラムの領主だったらしい。 そして11世紀にはサクソン人貴族のシレドがチラムの領主だった。しかし、西暦1066年にノルマンディー公ウィリアム(征服王ウィリアム1世)がイングランドに侵攻した際、シレドは征服王に敵対した。その結果、シレドはチラムの土地を没収されたわけだ。 チラムの土地を没収した征服王ウィリアム1世は、チラムをバイユー司教オドに与えたらしい。そのオドなる人物は、ウィリアム1世の異父弟にあたるんだそうな。ちなみに、ノルマンディー公ウィリアムによるイングランド征服(ノルマン・コンクエスト)を描いたバイユー・タペストリーは、このバイユー司教オドが作らせたと考えられているらしいよ。
チラムの村そんなこんなで様々な支配者を領主に迎えたチラムの村のハイ・ストリートの様子が右の画像なんだ。征服王ウィリアム1世が作らせたドームズディ・ブックによれば、西暦1085年の時点で、このチラムには12人の自由民と38人の農奴がいたらしい。 その後、15世紀頃にはチラムの村は毛織物取引で栄えたんだそうな。村にはその頃の建物もいくつか残っている。右の画像にある白壁の家は14世紀後半の建物なんだそうな。 ちなみに、上の画像にあるチラムの村のハイ・ストリートには、可愛い土産物の店もあるんだ。その店を見て歩くのも楽しかったりする。
チラムの村の教会と修道士の幽霊チラムの村には教会もある。小さな教会だよ。でも、西暦1085年のドームズディ・ブックにも記録されているから、その教会の歴史はもっと古いんだろうね。下の画像はその教会の塔なんだけど、建物の記録は西暦1280年まで遡るんだそうな。
この教会には裏庭がある。嵐の夜には、教会の裏庭には揺れるロウソクを持って歩く修道士の幽霊が姿を見せるという資料もあったりする。
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