東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅
悲劇のスコットランド女王 メアリー・スチュワート
(イングランド女王メアリーとは別人)
誕生
1542 年 12 月 7 日、スコットランド王ジェームズ 5 世の后ギーズ家のマリーが女の子を出産した。この赤ん坊がメアリー・スチュワートである。
同じ年の 12 月 13 日、ジェームズ 5 世死去。唯一の相続人であるメアリー・スチュワートがスコットランド女王となった。生後 7 日目である。
やがてメアリーは、貴族達が政争に明け暮れるスコットランドを離れ、母の祖国であるフランスへ送られた。メアリーがフランスで育てられている間、スコットランドを統治していたのは、摂政となった母親であった。
結婚
1558 年 4 月、フランス皇太子フランソワと結婚。
1559 年 7 月、義父の死に伴ない、夫はフランス王フランソワ 2 世となる。しかし、その 17 ヵ月後に夫は亡くなった。
帰国
1561 年 8 月 19 日、女王メアリー・スチュワートがスコットランドに上陸。直ちに新教徒と旧教徒との間の争いに巻き込まれた。
再婚
1565 年 7 月 29 日、22 歳のメアリーはダーンリー卿ヘンリー・スチュワートと再婚。この結婚に不満を抱いた貴族たちは、反乱を引き起こした。メアリーは直ちに反乱を鎮圧。
1566 年 3 月 9 日、メアリーの秘書でイタリア人のリッツィオが殺害された。この時、メアリーは妊娠 6 ヶ月の身体だった。
出産
1566 年 6 月 19 日、メアリーは男児を出産。ジェームズ・スチュワート。後のスコットランド王ジェームズ 6 世であり、またイングランド王ジェームズ 1 世である。
2 度目の死別 そして 3 度目の結婚
1567 年 2 月 10 日、メアリーの夫ダーンリー卿が殺害された。ボスウェル卿は妻と離婚し、メアリーと再婚した。
ロッホレーベン城
3 度目の結婚により、更に人心が離れていった。メアリーとボスウェル卿は、貴族達の軍と戦い、敗れた。
ボスウェル卿は逃亡し、捕えられたメアリーはロッホレーベン城に幽閉された。
1567 年 7 月 24 日、メアリーは退位を強制され、 1 歳の息子がスコットランド王ジェームズ 6 世となった。
やがてメアリーは、ロッホレーベン城を脱出。
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