東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

スコットランド周遊

1994 年 8 月

悲劇のスコットランド女王 メアリー・スチュワート
(イングランド女王メアリーとは別人)

誕生

1542 年 12 月 7 日、スコットランド王ジェームズ 5 世の后ギーズ家のマリーが女の子を出産した。この赤ん坊がメアリー・スチュワートである。

同じ年の 12 月 13 日、ジェームズ 5 世死去。唯一の相続人であるメアリー・スチュワートがスコットランド女王となった。生後 7 日目である。

やがてメアリーは、貴族達が政争に明け暮れるスコットランドを離れ、母の祖国であるフランスへ送られた。メアリーがフランスで育てられている間、スコットランドを統治していたのは、摂政となった母親であった。

結婚

1558 年 4 月、フランス皇太子フランソワと結婚。

1559 年 7 月、義父の死に伴ない、夫はフランス王フランソワ 2 世となる。しかし、その 17 ヵ月後に夫は亡くなった。

帰国

1561 年 8 月 19 日、女王メアリー・スチュワートがスコットランドに上陸。直ちに新教徒と旧教徒との間の争いに巻き込まれた。

再婚

1565 年 7 月 29 日、22 歳のメアリーはダーンリー卿ヘンリー・スチュワートと再婚。この結婚に不満を抱いた貴族たちは、反乱を引き起こした。メアリーは直ちに反乱を鎮圧。

1566 年 3 月 9 日、メアリーの秘書でイタリア人のリッツィオが殺害された。この時、メアリーは妊娠 6 ヶ月の身体だった。

出産

1566 年 6 月 19 日、メアリーは男児を出産。ジェームズ・スチュワート。後のスコットランド王ジェームズ 6 世であり、またイングランド王ジェームズ 1 世である。

2 度目の死別 そして 3 度目の結婚

1567 年 2 月 10 日、メアリーの夫ダーンリー卿が殺害された。ボスウェル卿は妻と離婚し、メアリーと再婚した。

ロッホレーベン城

3 度目の結婚により、更に人心が離れていった。メアリーとボスウェル卿は、貴族達の軍と戦い、敗れた。

ボスウェル卿は逃亡し、捕えられたメアリーはロッホレーベン城に幽閉された。

1567 年 7 月 24 日、メアリーは退位を強制され、 1 歳の息子がスコットランド王ジェームズ 6 世となった。

やがてメアリーは、ロッホレーベン城を脱出。




再び敗れる

1568 年 5 月 13 日、メアリーの軍が新教徒勢力に敗れた。

イングランドへ

メアリー・スチュワートは、従姉妹の関係にあるイングランド女王エリザベス 1 世を頼って行った。しかし、エリザベス 1 世は、自分の地位を脅かす惧れのあるメアリーを監禁した。

処刑

1587 年 2 月 8 日、エリザベス 1 世の命により、メアリー・スチュワートが処刑された。旧教徒勢力と結んで、エリザベスの暗殺を謀ったというのが、その口実である。

ウェストミンスター寺院へ

1612年、メアリーの息子であり、イングランド・スコットランド両国の王となったジェームズにより、メアリー・スチュワートの遺体がウェストミンスター寺院に移された。

【参考】都市別ツアー


【参考】ホテル検索



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