東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
ブダペストの春(ハンガリー)
1996 年 5 月
[ ハンガリー略年表 -8.]
ハンガリー共和国 ( 20c前半)
- 1918年11月16日、ハンガリーが共和制を宣言。カーロイ・ミハーイを首班とする臨時政府が連合軍との休戦処理を進めた。
- 1919年1月、カーロイ・ミハーイがハンガリーの大統領に選出された。
- 1919年3月21日、クン・ベーラを指導者とする共産主義的なソヴィエト政権が成立。列強や周辺諸国は革命の波及を怖れた。
- 1919年4月、共産主義の波及を怖れるルーマニアとチェコスロヴァキアの軍がハンガリーに侵攻。
- 1919年8月、ホルティ・ミクローシュ元帥指揮下の反革命軍とルーマニア軍が、ハンガリー政府軍を撃ち破った。クン・ベーラは退陣し、労働組合政府が成立。しかし、ルーマニア軍がブダペストを占領し、労働組合政府が崩壊した。
- 1919年11月、ルーマニア軍がブダペストから撤退。ハンガリー軍を掌握していたホルティ・ミクローシュ元帥がブダペストに入った。
- 1920年3月、軍を支配するホルティ・ミクローシュ元帥が摂政に任命された。彼には議会を解散する権限、首相を任免する権限などが与えられた。
- ハンガリーと連合国との間にトリアノン条約が結ばれた。その結果、ハンガリーは国土と人口の三分の二を失し、多数のハンガリー人が少数民族として国外に残された。
- 1921年3月、ハプスブルク家のカーロイ4世(オーストリア皇帝カール1世)が王政復古を試みたが、ホルティ・ミクローシュによって阻止された。
- 1921年、ハンガリーの反動政府が、周辺諸国に対して国境の改定を要求。チェコ・ルーマニア・ユーゴスラヴィアなどは小協商を結成して対抗。
他方、同様に第一次世界大戦の戦後処理に不満をもつイタリアは、ハンガリーの国境改定要求を支持して、東欧の不安定化を促した。
- 1921年11月、部隊を率いたカーロイ4世が再び王政復古を試みたが、ハンガリー軍によって阻止された。
- 1923年1月、ハンガリーが国際連盟に加盟。しかし、周辺諸国は反ハンガリーの姿勢を崩さず、ハンガリーの外交的孤立が続いた。
- 1927年4月、イタリアの首都ローマに於いてハンガリーとイタリアとの友好条約が成立。
- 1932年10月、全体主義的なゲンベシュ内閣が成立。
- 1933年6月、ゲンベシュ首相がベルリンにヒトラーを訪ねた。
- 1934年2月、ハンガリーとドイツとの間に経済協定が成立した。
- 1934年3月、ハンガリーとムッソリーニのイタリアとの間にローマ議定書が成立した。
- 1936年10月、ドイツとイタリアに接近したゲンベシュ首相が死去。後継のダラーニ政権はゲンベシュの全体主義的な政策を修正しようと試みたが、ドイツよりの姿勢を変えることはできなかった。
- 1937年10月、極右勢力による矢十字党が創設された。
- 1938年3月、ナチス・ドイツがオーストリアを併合。
- 1938年5月、イムレーディ内閣発足。
- 1938年9月30日、ミュンヘン会談においてチェコのズデーデン地方のドイツへの割譲が合意された。
- 1938年11月、第一次ウィーン裁定により、スロヴァキア南部のハンガリーへの帰属が決定された。
- 1939年2月、ドイツへの過度の接近によりイムレーディが失脚。テレキ・パール内閣が成立。
- 1939年3月15日、ドイツによるチェコの占領。
- 1939年4月、ハンガリーが国際連盟から脱退。
- 1939年9月1日、ドイツによるポーランド侵攻。ドイツはハンガリーの参戦を要求したが、テレキ内閣は拒否。
- 1939年9月3日、イギリス・フランスがドイツに宣戦。
- 1940年8月、第二次ウィーン裁定により、スロヴァキア北部のハンガリーへの帰属が決定された。領土問題の有利な解決のためにハンガリーは更にドイツに近づくことになった。
- 1940年11月、ハンガリーが三国防共協定に調印。
- 1940年12月、親独的なユーゴスラヴィアとの恒久友好条約を締結。その直後に発生したクーデターにより、ユーゴスラヴィアにおいて反独的な政権が成立した。ヒットラーはユーゴスラヴィアを占領することを決定し、ハンガリーにも協力を要求した。苦悩したテレキ・パール首相が自殺。
- 1941年4月、パールドシ・ラースロー内閣が発足。
- 1941年6月、ドイツがソ連に侵攻。ハンガリーもドイツ側に立って参戦することを余儀なくされた。
- 1942年3月、カーライ・ミクローシュ内閣発足。
- 1943年1-2月、ヴォロネージにおいてハンガリー軍が敗北。ロシア宣戦に派遣されたハンガリー軍がほぼ壊滅。
- 1944年1月27日、872日間にわたって包囲していたサンクト・ペテルブルクの攻略を諦めたドイツ軍が後退を始めた。ハンガリーのカーロイ内閣は、ドイツとの距離を置くことを模索し始めた。
- 1944年3月、停戦の動きを見せ始めたハンガリーを、ドイツ軍が占領した。元駐ドイツ大使ストーヤイ・デメが首相に就任。極右勢力の矢十字党が政権に参加し、多くのユダヤ人が国外に送られて虐殺された。
- 1944年、ストーヤイ政権に替わったラカトシュ・ゲーザ政権が、連合国との休戦を協議するための代表団をモスクワに派遣した。
- 1944年10月、ハンガリーと連合国との間で休戦協定が調印された。しかし、矢十字党がクーデターにより権力を掌握し、その党首サーラシ・フェレンツが政府を組織した。
- 1944年12月21日、ソ連軍の占領下に会ったハンガリー東部において、反独的な独立戦線臨時政府が樹立された。他方、ハンガリー西部は矢十字党政権とドイツ軍が支配していた。
- 1945年4月4日、ソ連軍がドイツ軍を撃ち破り、全ハンガリーを占領した。独立宣戦臨時政府がブダペストに移った。
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