ヴィスコンティ家が築いたスフォルツェスコ城紀元前400年頃にミラノの街を築いたのはケルト系の人々だった。やがて古代ローマ帝国によって席巻されるイタリアなんだけど、それ以前にはケルト系の人々がローマを略奪するようなこともあり、イタリア半島の北部は彼らの勢力下にあったみたい。その後、紀元前3世紀後半にはミラノは古代ローマ帝国によって征服され(当時の名前はメディオラヌム)、西暦3世紀後半には西ローマ帝国の首都にもなっている。名高いコンスタンティヌス帝のミラノ勅令はこの街で発せられたわけだね。 ところが、西暦402年にはミラノは西ゴート族に包囲され、皇帝ホノリウスは首都をラヴェンナに移している。更に西暦452年にはフン族に蹂躙され、西暦539年には東ゴート族に破壊され、西暦569年にはランゴバルド族によって征服されている。そして西暦774年にはフランク王国のカール大帝(シャルルマーニュ)に征服されたわけだ。 かくして西ローマ帝国の滅亡の前から戦乱に巻き込まれ続けたミラノなんだけど、やがて西暦1183年に独立した公国となった。そして西暦1262年にミラノの大司教となったのがオットーネ・ヴィスコンティだった。やがてライバルたちとの戦いに打ち勝った彼は、西暦1277年にミラノの実質的な支配者となったわけだ。
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ヴィスコンティ家の人々は、ミラノの支配者としての地位を受け継いでいった。そして14世紀の半ばにガレアッツォ2世・ヴィスコンティが築いたのが、今もミラノの街の中心を占めるスフォルツェスコ城あるいはスフォルツァ城(上の画像)だった。その後もヴィスコンティ家の支配者たちはスフォルツェスコ城を拡張していったらしい。
スフォルツァ家とスフォルツェスコ城ところが、西暦1447年にミラノ公フィリッポ・マリア・ヴィスコンティは後継者たる男子を残さずに亡くなってしまった。ミラノの市民たちによる自治が始まったんだ。ところが、3年後の西暦1450年にはフランチェスコ・スフォルツァがミラノを占領してしまった。彼はフィリッポ・マリア・ヴィスコンティの下で傭兵隊長として働いていた人物だった。
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ミラノ公となったフランチェスコ・スフォルツァは、居城としてスフォルツェスコ城(あるいはスフォルツァ城)を拡張している。例えば、上の画像にあるフィラレーテの塔を加えたりしたそうな。のみならず、彼はミラノ公国を近代化し、税制改革を行ったらしい。更にルネサンスの学芸をも盛んにしたんだそうな。そんなわけで、人々は彼を慕ったと言われている。 スフォルツァ家の没落甥を殺してミラノ公となったと疑われているルドヴィーコ・スフォルツァ(通称「イル・モーロ」)なんだけど、ルネサンスにおける芸術の庇護者として名高い人物でもある。例えば、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会においてダヴィンチに「最後の晩餐」を描かせたのは彼だった。他方で、スフォルツァ家の没落を招き寄せたのも彼だったのかもしれない。西暦1494年にローマ教皇アレクサンデル6世とナポリ王が手を結んだことに脅威を感じた彼は、フランス王シャルル8世をイタリアに招き寄せたんだ。以後、歴代のフランス王たちはイタリアに野望を燃やし続けることになる。
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西暦1499年にはフランス王ルイ12世によってミラノとスフォルツェスコ城(上の画像はその城門)を奪い取られている。その翌年にはルドヴィーコ・スフォルツァはスフォルツェスコ城に返り咲くことに成功した。でも、西暦1500年には再びルイ12世に城と領地を奪われ、自らも捕われの身となり、西暦1508年にフランスで亡くなっている。
忘れられていたダヴィンチの絵申し訳ないが、ここで再びスフォルツェスコ城の話。西暦2013年11月、このスフォルツェスコ城の部屋の壁から、数百年にわたって忘れられていたダヴィンチの絵が発見されたそうな。その部屋にはダヴィンチが天井画を描いていたんだけど、実は壁にも彼の絵が描かれていたんだ。この絵が描かれたのは西暦1498年にことと考えられている。ところが、その翌年にはフランス軍の侵攻があり、ダヴィンチや彼の雇い主のルドヴィーコ・スフォルツァたちがミラノを出たこともあり、壁の絵が完成することはなかったらしい。 その後、18世紀はじめにミラノに進駐していたオーストラリア軍がこの部屋の壁を白い塗料で塗ってしまった為、ダヴィンチの絵は覆い隠されてしまった。その塗料の下から発見された彼の絵は彩色には至っておらず、下絵の状態だったそうな。この絵の発見後、復元作業が行われているらしいけど、その後はどうなったのかな。
ミラノの街角でジプシー襲撃事件、そしてフィレンツェさて、スフォルツェスコ城からホテルに帰ろうとタクシーに ・・・ 乗ろうとしたら、断られた。近すぎるからって。仕方ないね。歩いて帰ろう。そこに雨も降ってきた。疲れもある。道もわからなくなってきた。ん、目の前に中年の女性が立っている。立ち止まった私の左腕を家内がつかんだ。振り返ると、家内じゃなかった。見知らぬおばさんだ。何だろう ・・・。おや、前からも、左からもおばさんだ。右手には工事現場の壁だ。いつの間にか取り囲まれている。手に手に段ボールを持った女性たちがゆっくりと私に近づいてきた。 これはジプシーの集団だ。「触るんじゃねぇ。近寄るな。」と私は何度も叫び、ジプシーおばさんにつかまれている左腕を振りほどき、ダッシュして包囲網を脱出した。ジプシーおばさんたちが持っていた段ボールが道に落ちた。腹が立って、その段ボールをジプシーおばさんたちの方に蹴っ飛ばしてやった。 後日のことだけどジェノヴァに住む友人に聞いた話では、その段ボールは眼くらましで、その下で財布などを盗むんだそうな。やがて諦めたジプシーおばさんの集団が去っていく。奇怪なことにそのうちの1人は私に投げキッスをしたんだ。 まずは荷物やポケットの中をチェックする。被害は無い。何も盗まれてはいないみたい。ようやく周囲を見回す余裕が出来た。人々が遠巻きに私を見ている。その中に家内の姿があった。家内は身体がすくんで動くことも出来なかったらしい。 その家内に私が尋ねた。「ジプシーの一人が最後に投げキスをして行ったんやけど、俺に気があったんやろか ・・・ 」。「アホやな。投げキッスやないよ。ツバをかけて逃げて行ったんや。」と家内。なるほど、言われてみれば、シャツの袖にツバが残っていた。 ところで、お腹が空いた。安心できるところでひと休みしたい。というわけで、帰り着いたホテルのレストランでお昼を食べ、ワインとカプッチーノで温まった。食後、ホテルからタクシーに乗り、駅に到着。特急列車に乗り、3時間でフィレンツェに到着。すぐにホテルに入り、部屋で洗濯を始めた。ジプシーおばさんたちに唾を吐きかけられたシャツを洗わないとね。もちろん、自分で洗った。家内は手を出さなかったよ。 さて、ホテル近くのレストランに入る。前菜、メインはフィレンツェ名物の巨大な骨付きステーキ、デザート、そしてワイン。なんだか色々あった一日だったけど、ともかくは無事に終了。過ぎてみればスリルに満ちた一日だったね。ジプシー襲撃事件の後遺症で、駅にいても、道を歩いても、常に周囲を警戒するようになっちゃったけどね。
そんなジプシー(ロマ)なんだけど、ヨーロッパの文化の重要な要素でもあるのかな。例えばハンガリーなどの音楽にも影響しているし、私の大好きなスペインのフラメンコも彼ら無しでは語ることができないからね。
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