サン・ロレンツォ教会とメディチ家礼拝堂旅に出て 4日目の朝、ロンドンのパブのイングリッシュ・ブレックファストもちょいと恋しくなっている。イタリアのホテルのコンティネンタル・ブレックファストはとっても美味しいんだけどね。今日も朝の10時に活動開始。まず向かったのは、サン・ロレンツォ教会だった。15世紀の前半にメディチ家の当主であるジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ(国父コジモの父親)の財政的支援により、ブルネレスキを起用して改築された教会なんだそうな。言うまでもなくフィレンツェのドゥオモ(大聖堂)を完成に導いたのがブルネレスキだよね。
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そんなサン・ロレンツォ教会の外観が上の画像なんだけど、画像の左上に見えている大きなクーポラが「君主の礼拝堂」の円屋根なんだ。サン・ロレンツォ教会に付属する「君主の礼拝堂」は、「新聖具室」と共にメディチ家礼拝堂を構成しているらしい。
君主の礼拝堂とメディチ家フィレンツェの名家メディチ家と長いつながりのあるサン・ロレンツォ教会に「君主の礼拝堂」を造ろうという最初のアイデアを出したのは、傍流から出てメディチ家の初代トスカナ大公となったコシモ1世だった。あのシニョーリア広場の真ん中に騎馬像が立っている人物だね。
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でも、トスカナ大公コシモ1世の存命中には、メディチ家の君主の礼拝堂は完成しなかった。その装飾の完成は更に遅れ、上の画像にある円屋根内部のフレスコ画がピエトロ・ベンヴェヌーティによって完成されたのは西暦1828年のことだった。その時点ではメディチ家の最後のトスカナ大公は亡くなっていたんだけどね。
メディチ家の第3代トスカナ大公フェルディナンド1世メディチ家の初代トスカナ大公コシモ1世のアイデアを引き継ぎ、サン・ロレンツォ教会において君主の礼拝堂の建設を始めたのは、コシモ1世の息子の第3代トスカナ大公フェルディナンド1世だった。
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君主の礼拝堂の中にはフェルディナンド1世の像(上の画像)もある。その像を制作したピエトロ・タッカは、フィレンツェ市内にあり観光客に人気のポルセリーノ(子豚)と呼ばれるイノシシ像の作者でもある。
メディチ家の墓所でもある新聖具室ところで、サン・ロレンツォ教会の中で君主の礼拝堂と並んでメディチ家の礼拝堂を構成する要素となっているのが、「新聖具室」なんだそうな。その新聖具室は、上に書いたローマ教皇レオ10世とその従弟の枢機卿ジュリオ・デ・メディチ(後のローマ教皇クレメンス7世)がミケランジェロに設計させたものらしい。更には、ミケランジェロはサン・ロレンツォ教会の新聖具室にいくつもの彫刻も残している。例えば、下の画像は新聖具室にあるウルビーノ公ロレンツォ・デ・メディチのお墓なんだけど、お墓の左右の人物像は「黄昏」と「曙」と名付けられている。(ちなみに、このウルビーノ公ロレンツォの死を以てメディチ家兄脈の嫡流男系が断絶したらしい。但し、彼の娘カトリーヌ・ド・メディチは、上に書いたようにフランス王アンリ2世に嫁いでいる。)
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その他にも、新聖具室に残るミケランジェロの作品としては、メディチ家のヌムール公ジュリアーノのお墓や聖母子像などがある。フィレンツェだけでもミケランジェロの作品は多いよね。更にはイタリア全土で彼の作品を見てまわろうなんて考えたら、それだけで眼が回るね。
そうそう、大事なことを一つ。サン・ロレンツォ教会には日曜日には入れないし、メディチ家礼拝堂は火曜日から土曜日は午後は入れない。しかも、メディチ家礼拝堂は日曜日と月曜日が交互に休みになるみたい。スケジュールを柔軟に組んでおくか、あるいは細かく調べた上で綿密な計画を練って行くか、だね。
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