ポンペイ遺跡の古代の通り西暦79年8月、南イタリアの大地はカラカラに乾燥していた。突如として轟音が大地を揺るがす。驚く人々の目は怒り狂うヴェスヴィオ火山に釘付けとなった。その火の山から襲いかかる火砕流は時速 100kmを越える速さで古代ポンペイの街を呑み込んでいった。やがて溶岩のかけらと火山灰に街は埋もれてしまった。それから1630年の歳月が流れ、西暦1709年のこと。井戸を掘っていた男が大理石の柱を見つけた。人々はその周囲を掘り返し、古代ローマ帝国時代の彫刻を見つけ出した。でも、ポンペイ遺跡の目覚める時はまだ到来しなかった。 西暦1748年、当時のナポリを支配していたブルボン家の王カルロ7世(後にスペイン王カルロス3世)が付近の発掘を命じた。その結果、火山灰のタイム・カプセルに閉じ込められていたポンペイ遺跡が目覚めたわけだ。
そんなポンペイ遺跡を歩く。例えば、上の画像は古代ローマ帝国時代の通りなんだけど、手前から奥に向かって長く続く車道(車の轍の跡もある)の左右は歩道なんだそうな。その左右の歩道を結ぶ飛び石も見えるかな。この飛び石は古代の横断歩道だったりする。
ポンペイ遺跡に残る古代の水飲み場古代ローマ帝国はローマのコロッセオ(円形闘技場)などの建築のみならず、フランス南部のポン・デュ・ガール(水道橋)を代表とする水道工事においても、高い技術を誇っていた。
そんな水道によって運ばれた水の行き着くところが上の画像。これはポンペイ遺跡に残る古代の水飲み場なんだそうな。ついでながら、上の画像の石に彫られた人物は女性なんだろうな。古代ローマ帝国時代のおかっぱの少女 ・・・ なのかな。
ポンペイ遺跡で見た水道管では、水飲み場への水の供給がどうなっていたか、というのが下の画像。これはポンペイ遺跡で見た古代の水道管なんだ。日本の卑弥呼の時代よりも以前にこんな水道管が使われていたんだね。
でも、このポンペイ遺跡に残る水道管は鉛で作られていた。その結果、ポンペイの市民の中には鉛の中毒に苦しむ人が多かったんだそうな。古代の先進技術による最古の公害ということなのかな。
ポンペイ遺跡の円形闘技場そして下の画像はポンペイ遺跡にある円形闘技場。そりゃローマのコロッセオに比べれば小さいよ。でも、私が住んでいる町の市営球場よりははるかに大きくて立派なんだけどね。
古代ローマ帝国の人々には野外劇場や円形闘技場が不可欠だったんだろうね。ヨーロッパ各地に建設した多くの街に劇場や闘技場などを作っているよね。フランス南部プロヴァンス地方のアルルやニーム、フランス第2の都市リヨンなどには今も残っている。
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