東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記「ローマとポンペイ(イタリア)」

ポンペイ略年表

  • BC 6世紀、イタリア南部にある先住民オスク人の街ポンペイに、ギリシア人が移住してきた。

  • BC 524-474年、古代エトルリア人がポンペイの街を支配した。当時のローマもエトルリア人を王としていたが、BC 509年にはローマはエトルリア人の王を追放している。

  • BC 474-424年、ポセイドニア(今のパエストゥム)などの有力都市をイタリア南部に築いていたギリシア人がポンペイの街を支配した。

  • BC 424年、山間部に住んでいたサムニウム人がポンペイを占領した。この頃からポンペイの名で呼ばれ始めた。

  • BC 3世紀末、第二次ポエニ戦争の際、イタリア半島で戦いを続けるハンニバルに対し、ポンペイはローマとの同盟を守り続けた。

  • BC 90年、同盟市戦争において、ポンペイは同盟諸都市の側にたって参戦した。

    しかし、その翌年、ポンペイの街はローマの将軍スラに降伏した。

  • BC 1世紀前半、ローマの将軍スラは、配下の退役軍人をポンペイに植民させた。以後、ポンペイのローマ化が進んだ。

    当時のポンペイの正式名称は、コロニア・ウェネリア・コルネリア。コルネリアとは、スラの家名だった。

  • AD 62年2月5日、ポンペイは大地震に襲われた。

  • AD 79年8月24日、ヴェスヴィオ火山の噴火により、人口2万人の街ポンペイが火山灰の下に埋もれた。

  • AD 1709年、ポンペイ近くのヘルクラネウムで、井戸を掘っていた男が大理石の柱を掘り出した。

  • AD 1748年、ブルボン家のナポリ王カルロ7世(後のスペイン王カルロス3世)の命により、ポンペイの発掘が始められた。

  • AD 1787年、ナポリ国立考古学博物館が設けられた。館内には多くのポンペイ出土品(アレクサンダー大王のモザイク画を含む)が展示されている。

  • AD 1823年、ポンペイの円形闘技場が発掘された。

  • AD 1944年、ポンペイを壊滅させたヴェスヴィオ火山が噴火した。その頃、イタリア本土上陸を果たした連合国軍は、ローマ攻略を目指して北上する真最中だった。

  • AD 1952年、ユリア・フェリクスの家が発掘された。その家の庭園を取り囲む壁には、古代ローマ時代の「ヴィーナスの誕生」の絵が残されていた。


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