東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記「マルタ 聖ヨハネ騎士団の島」

10. 聖アンジェロ城砦からの眺め(マルタ)

聖アンジェロ城砦と聖エルモ城砦

西暦1565年にマルタ島に上陸したオスマン・トルコ軍は、最初の攻撃目標をシベラス半島の先端にある聖エルモ城砦と定めた。(下の画像は聖アンジェロ城砦から眺めた聖エルモ城砦の様子。)

ヴィットリオーザ(ビルグ)にある聖アンジェロ城砦から眺めたヴァレッタの先端の聖エルモ城砦(マルタ共和国)

敵の大軍による連日の猛攻にさらされた聖エルモ城砦。騎士たちや兵士たちは傷つき倒れ、城壁の修復の為の資材も不足し、食料・弾薬なども十分とはいえなかった。聖ヨハネ騎士団の本部のある聖アンジェロ城砦からは、夜の闇にまぎれて物資や援兵を小舟に乗せて聖エルモ城砦に送り続けたそうな。

ところが、西暦1565年6月22日の夜はトルコ軍の砲火に妨げられ、5隻の小舟に分譲した騎士団の援兵は聖エルモ城砦にたどり着くことができなかった。力尽きた聖エルモ城砦が陥落したのはその翌日のことだった。城砦に掲げられていた騎士団の八角十字の旗が引き降ろされるのが聖アンジェロ城砦からも見えただろうね。

聖エルモ城砦を見下ろすシベラス半島の高地

ところで、下の画像は聖エルモ城砦のあるシベラス半島の高地を聖アンジェロ城砦から眺めた様子なんだ。

ヴィットリオーザ(ビルグ)にある聖アンジェロ城砦から眺めたヴァレッタのあるシベラス半島の高地(マルタ共和国)

オスマン・トルコ軍はこの高地に多くの大砲を並べ、聖エルモ城砦に向かって激しい砲撃を加えた。聖ヨハネ騎士団の戦士たちが傷つき疲れ果て、城壁のあちこちが崩れ落ちた頃、トルコ軍は突撃を行ったそうな。そんなトルコ軍の突撃を何度もしのいだ聖エルモ城砦は、1ヶ月以上も戦い続けた末にとうとう最後の時を迎えたというわけだ。

そんなオスマン・トルコ軍がマルタ島攻略を諦めて撤退した翌年に建設が始まった要塞都市ヴァレッタなんだけど、トルコ軍が大砲を並べた高地をも領域の中に含んでいる。再び襲ってくるに違いない敵軍の砲兵隊に絶好の陣地を与えないためだよね。

聖アンジェロ城砦とセングレア

下の画像は聖アンジェロ城砦から眺めた隣のセングレア(旧リースラ)の先端部分なんだけど、聖アンジェロ城砦とセングレアとの間には巨大な鎖が張られて敵軍の艦船の侵入を阻んだことは前のページに書いたよね。

ヴィットリオーザ(ビルグ)にある聖アンジェロ城砦から眺めたセングレア(旧リースラ)の先端部分(マルタ共和国)

更に、聖アンジェロ城砦のあるヴィットリオーザ(旧ビルグ)とセングレア(旧リースラ)との間には小舟を連ねた橋が架けられ、二つの半島に分かれて戦い続ける部隊間の連絡に使われていたそうな。

スリー・シティーズの眺め

そして下の画像は聖アンジェロ城砦の上から眺めたヴィットリオーザ(旧ビルグ)の街の眺め。船が停泊しているのはドックヤード・クリーク。その対岸に見えるのがセングレア(旧リースラ)の街。ドックヤード・クリークの奥にはコスピークワの街がある。

ヴィットリオーザ(ビルグ)にある聖アンジェロ城砦から眺めたスリー・シティーズ(マルタ共和国)

要塞都市ヴァレッタには聖ヨハネ騎士団の歴代の騎士団長などが眠る聖ヨハネ大聖堂があるけれども、その完成は西暦1577年のこと。その完成まで騎士たちがミサなどを行った教会などは、このスリー・シティーズにある。そんな由緒あるスリー・シティーズの街の中を今から歩くことにしよう。


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