東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記「マルタ 聖ヨハネ騎士団の島」

12. セングレア散策(マルタ)

セングレアから眺めた聖エルモ城砦と聖アンジェロ城砦

ヴィットリオーザ(旧ビルグ)からコスピークワ(旧バームラ)を経て、聖ミカエル城砦の城門をくぐり、セングレア(旧リースラ)を歩いた。

セングレア(旧リースラ)から眺めた聖エルモ城砦(左)と線アンジェロ城砦(マルタ共和国)

そのセングレア(旧リースラ)からグランド・ハーバーの出口方面を眺めたのが上の画像の風景なんだ。右手に見えているのは聖アンジェロ城砦、左手には聖エルモ城砦。西暦1565年のオスマン・トルコ軍によるマルタ島攻囲(グレート・シージ)の際には、敵中に孤立する聖エルモ城砦に対して、聖アンジェロ城砦から小舟で援兵と物資が送られていた。それでも結局は聖エルモ城砦は陥落してしまったんだけどね。

その後、オスマン・トルコ軍の攻撃の矛先はスリー・シティーズに向けられ、聖ヨハネ騎士団はこのセングレアと聖アンジェロ城砦とのまに巨大な鎖を張って敵軍の船の侵入を阻み、小舟をつないで橋を渡して向こう岸との間の連絡を行ったらしい。

セーフヘヴン公園と見張台ヴェデット

そんなセングレア(旧リースラ)の半島の先端には、セーフヘヴン公園がある。何がある ・・・ というほどでもない小さな公園なんだけど、その一画にある見張台ヴェデット(下の画像の中央に見えている)からのグランド・ハーバーの眺めが素晴らしい。見張台の壁にある目、耳、フラミンゴの彫刻も面白いね。

セングレア(旧リースラ)の先端にあるセーフヘヴン公園と見張台ヴェデット(マルタ共和国)

そんなセーフヘヴン公園のベンチに座っていると、観光客のツアーの一団がやって来た。マルタには老人のツアーをよく見かける。南国マルタに夏を先取りしに来るのかな。会話を聞いていると、イギリス人の他にフランス人、ドイツ人というところか。

セングレアで出会ったマルタの少年

あちこちにレンズを向けながらセングレアの通りを歩く。そんな私に地元の少年が声をかけてきた。何かを言っているんだけど、英語でもなく、理解不能。それでも根気良く何かを言っている。あ、そうか。私の持っているデジカメで彼を撮れと言っているんだ。

セングレア(旧リースラ)で出会った少年(マルタ共和国)

というわけで、デジカメで少年を撮影したのが上の画像。この画像を見せてやると大喜びだった。が、今度はそのデジカメで私を撮ってやると言っているみたい。 ・・・ いやいや、それはやめておこう。デジカメを落として壊されても困る。万が一にもデジカメを手に持ってダッシュされれば、間違いなく追いつけないよね。

セングレアにある勝利の女神教会

そんな少年と出合ったのが、ベネディクト教皇広場のすぐ近くだった。その広場には、勝利の女神教会(下の画像)がある。西暦1565年にマルタ島に上陸したオスマン・トルコの大軍との戦いにおける勝利を記念して建立された教会なんだそうな。その完成は西暦1580年のこと。

セングレア(旧リースラ)にある勝利の女神教会(マルタ共和国)

そして第二次世界大戦の真っ最中の西暦1941年、この教会は空爆によって破壊されてしまった。マルタ島はエジプト遠征に向かう途中のナポレオンによって征服されたけれども、西暦1800年からはイギリスによって支配されていた。第二次世界大戦当時もマルタ島にはイギリス軍が基地を置いていた。そんなこともあり、ドイツ軍・イタリア軍による空爆などによってマルタの街々は甚大な被害を蒙っている。特にセングレアの街の建物の多くが破壊されたらしい。破壊されたこの勝利の女神教会が再建されたのは西暦1956年のことだった。

ついでながら、西暦1565年のオスマン・トルコ軍との戦いを記念する教会はあちこちに建てられている。要塞都市ヴァレッタにも勝利の女神教会が建てられている。この旅を終える前にその教会にも行ってみるつもりなんだけどね。


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