エカテリーナ 2世(大帝)
- 1762年、七年戦争(1756 - 1763年)でプロシアと戦っていたロシアの女帝エリザベータが亡くなった。彼女が後継者としていたのは、ドイツ生まれのピョートルだった。
ロシア皇帝となった彼は、ピョートル 3世と呼ばれた。ピョートル大帝の孫ではあったが、ピョートル3世は無教養で幼稚で、しかも戦っている相手国プロシアの王フリードリヒ2世に心酔していた。
ピョートル3世はロシア軍が占領していたプロシアの領土をフリードリヒ2世に返還し、おかげで窮地に追い込まれていたプロシアは息を吹き返した。
更に、ルター派の信者の家に生まれたピョートル3世は、ロシア正教を嫌っていた。人心は皇帝から離れていった。
- 1762年7月10日、青年将校たちと共にクーデターを企てたエカテリーナ2世は、2万の兵を率いて、夫である皇帝ピョートル3世を退位させ、自らロシア皇帝に即位した。
10日後、ピョートル3世はエカテリーナ2世と共にクーデターを計画した青年将校アレクセイ・オルローフによって殺害された。
彼女も夫と同様にドイツの出身であったが、ロシア正教の教えに従い、またロシア語やロシアの歴史を学ぶ彼女には支持者が多かった。
また、ヴォルテールと文通しモンテスキューに傾倒する彼女は、啓蒙専制君主と呼ばれた。
- 1772年、プロシア・オーストリア・ロシアの3カ国による第1回ポーランド分割。
- 1773年、ピョートル3世を自称するプガチョフに率いられた大規模な反乱が起こった。しかし、翌年1月、部下に裏切られて政府軍に捕えられたプガチョフが処刑され、反乱は終息した。
- 1783年、クリミアがロシアに併合された。
- 1787年、ロシアに対してクリミアからの撤退を要求するオスマン・トルコとの戦争が始まった。
- 1792年、オスマン・トルコとの講和が成立したが、成果は乏しかった。
- 1793年、派遣されたロシア軍の圧力に屈したポーランドに対して、第2次分割を行った。
- 1795年、第3次ポーランド分割。
- 1796年11月17日、エカテリーナ2世(大帝)死去。
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