ルーベンスの絵「キリスト昇架」(「十字架にかけられるキリスト」)前のページに書いたように、物語「フランダースの犬」の少年ネロがアントワープにあるノートルダム大聖堂(聖母マリア大聖堂)で月明かりで見たのが、バロックの画家ルーベンスの「キリスト昇架」あるいは「十字架にかけられるキリスト」(下の画像)だった。
大聖堂に飾られている絵なのだから、少年ネロもいつでも好きな時に見ることができると思っちゃうよね。ところが、このノートルダム大聖堂で名高い画家ルーベンスの絵を見るには拝観料を払うことが必要だったんだ。全てを失っていた貧しい少年ネロには、とても工面することができない金額だった。だからこそ、彼はその絵に憧れ、いつか見ることを夢見たわけだ。
バロックの画家ルーベンスによる「キリスト降架」そして少年ネロがクリスマス・イブの夜に見たもう一つのルーベンスの絵が「キリスト降架」(下の画像)だった。
この「キリスト降架」は画家ルーベンスが西暦1614年頃に完成させたものなんだそうな。このページの冒頭に掲げた絵「キリスト昇架」は西暦1610年頃の作品とされているらしい。
ルーベンス - バロックを代表するフランドルの画家この画家ルーベンスの両親は今のベルギーのアントワープの出身だった。但し、ルーベンスは西暦1577年にドイツで生まれたらしい。当時の彼の両親はアントワープから亡命していたんだそうな。西暦1587年には父親が亡くなり、ルーベンスと母親はアントワープに戻ってきたんだそうな。少年の頃から絵を学んだルーベンスは、23歳になった西暦1600年にイタリアに行き、そこで貴族の宮廷で画家として仕えている。そして西暦1608年にアントワープに戻ったルーベンスは、イタリア帰りの画家ということで引く手あまたの活躍をしたらしい。 他方でまさにその頃、イタリアのバロックの画家カラヴァッジョが亡くなっている。バロックの芸術の中心がイタリアからベルギーなどに移ることを象徴するような偶然だよね。但し、イタリアのバロックのもう一人の旗手ベルニーニがローマで活躍するのはその後のこと。ルーベンスはベルニーニのローマを見てはいないわけだね。 そんなバロックの画家ルーベンスの代表作となったのが、このアントワープのノートルダム大聖堂に残る「キリスト昇架」「キリスト降架」だったわけだ。ちなみに、前のページにも書いたけれども、ルーベンスがここで絵を完成させる数十年前には、カルヴァン派プロテスタントがこのノートルダム大聖堂の偶像や装飾を破壊している。ルーベンスの代表作がそんな運命に遭わなかったことが有り難いよね。 このアントワープのノートルダム大聖堂での制作を終えた画家ルーベンスは、西暦1622年にフランスの首都パリに向かった。ブルボン家初代のフランス王アンリ4世の2番目の王妃でフランス王ルイ13世の母であるマリー・ド・メディチ(メディシス)の注文を受けたんだ。 パリに到着した画家ルーベンスが制作したのは、王母マリー・ド・メディチ(メディシス)の生涯を描いた絵の連作だった。その作品はパリのルーブル美術館で見ることができる。 パリでの仕事を終えた画家ルーベンスは、西暦1625年にアントワープに戻っている。そして西暦1640年に亡くなったんだそうな。
ノートルダム大聖堂に残るルーベンスの絵「キリストの復活」そして下の画像は、アントワープのノートルダム大聖堂に残る画家ルーベンスのもう一つの代表作「キリストの復活」なんだ。
この絵の完成が西暦1622年とされている。ということは、この絵を仕上げた後に、フランス王室の注文に応えるために、ルーベンスはパリに向かったということなんだろうね。
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