東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

春のブルガリア
東欧(1997年5月)



ブルガリアの歴史

12. ブルガリア王国以後

  • 1908年、オスマン・トルコで青年トルコ党による革命が起こった。

    その機に乗じたブルガリア公フェルディナンドは、ブルガリアの完全独立を宣言し、自らブルガリア国王フェルディナンド1世を称した。

    ケマル・アタテュルク (トルコの父)

    トルコの切手に印刷されたケマル・アタテュルクの肖像 青年トルコ党革命の後、トルコにおいてはケマル・アタテュルク(ムスタファ・ケマル・パシャ)が政権を掌握し、近代トルコの建設に乗り出した。

    右の画像は、トルコの切手に印刷されているケマル・アタテュルクの肖像。

  • 1912年、オスマン・トルコ内で進む住民のトルコ化政策に反発したブルガリアとセルビアが同盟を結んだ。同盟にはギリシャも参加し、バルカン連盟となった。

    同年10月、バルカン連盟諸国はトルコに宣戦を布告し、軍を侵攻させ、第一次バルカン戦争が始まった。

  • 1913年、ロンドン条約が結ばれ、トルコはヨーロッパ側の領土の多くを放棄することになった。

    しかし、マケドニアの分割をめぐってバルカン連盟諸国は対立。ブルガリアはセルビアとギリシャを攻撃し、第二次バルカン戦争が勃発した。

    失地挽回を目指すトルコは、セルビアとギリシャ側に立って参戦。しかも、ルーマニアもブルガリアに侵攻を始めた。孤立無援となったブルガリアは講和を求め、領土の縮小を受け入れざるを得なくなった。

  • 1914年、第一次世界大戦勃発。再び領土の拡大を目指したブルガリアは、ドイツ・オーストリアの側に立って参戦。

  • 1918年、連合国との間に講和条約を結んだブルガリアは、多くの領土の割譲を強いられ、また巨額の賠償金の支払を行うこととなった。

  • 1923年、ブルガリアにおいて軍によるクーデターが起こり、ファシストが政権を掌握した。

  • 1935年、ドイツやイタリアと接近したブルガリア国王ボリス3世が、独裁的な統治を行った。

  • 1939年、第二次世界大戦勃発。ブルガリアは中立の立場を取ることとした。

  • 1941年、ブルガリアが枢軸側に立って参戦。

  • 1944年、ブルガリア政府が英米との和平交渉を開始した。

    しかし、突如として宣戦を布告したソ連がブルガリアに侵攻。やがてモスクワから帰国したディミトロフが政権を掌握した。

  • ブルガリア(東欧)の略図 1946年、王政が廃止され、ブルガリア人民共和国の成立が宣言された。(右の画像は現在のブルガリア)

  • 1947年、ブルガリア労働者党による一党独裁制が成立した。

  • 1948年、ブルガリア労働者党がブルガリア共産党と改名した。

  • 1989年、ドイツベルリンの壁が崩壊した。

    同じ年、ブルガリアのジフコフ大統領が辞任し、長く続いた独裁的な共産党支配が終わった。

  • 1990年、ブルガリアのトルコ系住民がデモを行った。

  • 1991年、コメコンの解散が決議された。

  • 2001年、シメオン・サクスコブルゴツキ(ザクセン=コーブルク=ゴータ)元国王を首相とする新政権が発足した。

    シメオン(2世)元国王は、1946年に王政が廃止されて亡命したとき、9歳の子供だった。

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