東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
春のブルガリア
東欧(1997年5月)
ブルガリアの歴史
11. ブルガリア公国
- 1877年、皇帝アレクサンドル2世治下のロシアがオスマン・トルコに宣戦を布告。既に独立宣言を発していたルーマニアはロシア軍の領内通過を認め、ロシア軍はブルガリアへ進出。ブルガリア国内では多くの人々が義勇兵としてロシア軍に参加した。
カザンラクの北にあるシプカ峠で、ブルガリア解放の為に派遣されたロシア軍と守るオスマン・トルコ軍との間で激しい戦いが行われた。
右の像は、ブルガリアの首都ソフィアの国会議事堂の前に立つ解放者騎馬像。ロシア皇帝アレクサンドル2世の像である。
- 1878年、サン・ステファノ条約により休戦が成立。同条約によればブルガリアはバルカン半島で最大の領土を持つ国家となるはずであった。
しかし、ロシアの影響下にあるブルガリアの強大化を懸念した列強が介入し、ベルリン条約が成立。この条約により、オスマン・トルコの主権下にありながらも自治を認められたブルガリア公国(首都はソフィア)が成立した。
しかし、サン・ステファノ条約と比べてベルリン条約によって認められたブルガリアの領土は小さく、特にオスマン・トルコの領土として取り残された東ルメリアやマケドニアなどのブルガリア人居住地域の問題は、将来に禍根を残すものとなった。
なお、1877-1878年の戦争の結果、ルーマニア、セルビア、モンテネグロなどの独立が確認され、オーストリア=ハンガリー帝国はボスニア・ヘルツェゴヴィナを支配下に置き、イギリスはキプロス島を獲得した。
- 1879年、ロシア皇帝アレクサンドル2世の甥でドイツのバッテンブルク家のアレクサンダルがブルガリア公となった。
しかし、ブルガリア公国に派遣されたロシア人の官吏や軍人に対するブルガリア人の反発が強まり、ブルガリア公国のアレクサンダル公は反ロシアの姿勢に転じ、両国の関係は悪化した。
- 1885年、オスマン・トルコの支配下に残された東ルメリアにおいて反乱が起こり、オスマン・トルコから派遣されていた総督が追放され、東ルメリアとブルガリア公国とが統一された。
ブルガリアの統一による勢力拡大に脅威を覚えたセルビアがブルガリア公国に宣戦を布告した。しかし、ブルガリア軍がセルビア軍を撃破し、セルビア領内へ侵攻した。しかし、オーストリア=ハンガリーの介入により、セルビアは敗北を免れた。
- 1886年、ブルガリアの統一が列強会議によって認められた。
同年、ブルガリア国内の親ロシア派がクーデターによって政権を握り、反ロシア派のアレクサンダル公を退位させた。
しかし、反ロシア派がクーデターで巻き返し、オーストリア軍の将校でドイツのザクセン=コーブルク=ゴータ家のフェルディナンドがブルガリア公となった。
- 1903年、オスマン・トルコの支配下に残されたマケドニアで反乱が起こった。オスマン・トルコ軍によって鎮圧され、多くの人々が虐殺された。
オスマン・トルコ軍による虐殺を逃れる為、多くのブルガリア系の人々がマケドニアを脱出し、ブルガリアに逃げ込んだ。
- 1904-1912年、ソフィア市内にアレクサンドル・ネフスキー教会が建設された。ブルガリアの独立回復に対するロシアの支援に感謝するためのものだった。
ちなみに、アレクサンドル・ネフスキーとは、ロシア正教を守るために戦ったロシアの英雄である。
下の画像は現在のソフィア市内のアレクサンドル・ネフスキー教会。金色に輝くドームが印象的だ。
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