東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅
春のブルガリア
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私が調べたところでは、キリル兄弟の父親はモラヴィアからの移民だったみたい。でも、キリル兄弟はブルガリアで生まれたからブルガリア人かな...。 |
解放者騎馬像 ロシア皇帝アレクサンドル2世ブルガリアは14世紀から19世紀にかけて、オスマン・トルコに支配されていたんだ。オスマン・トルコ支配下のブルガリアでは、政治や土地を支配していたのはトルコ人、商業や宗教を支配していたのはギリシャ人だった。そして19世紀になり、次第に民族感情が目覚め、ブルガリアにおいても独立運動が盛んになってきた。1876年、ブルガリアにおいてオスマン・トルコに対する蜂起が起こった。でも、オスマン・トルコの兵士達によって鎮圧され、しかも多くの人々が虐殺される結果になった。 翌年の1877年、ロシア帝国がオスマン・トルコに宣戦を布告。ルーマニアを通過してきたロシア軍がブルガリアに進出し、トルコ軍との戦いを展開した。その結果、1878年にはベルリン条約が結ばれ、ブルガリア公国が成立して、ブルガリアの人々は自治を回復することが出来た。 そして、ブルガリアの地で戦ったロシア軍将兵達の為に立てられたのが、右の画像にある解放者記念像(あるいは、ロシア将兵記念碑)。騎馬の人物は、ロシア皇帝アレクサンドル2世だって。 全くの余談なんだけど、このロシア皇帝アレクサンドル2世は当時のロシアの首都サンクト・ペテルブルクで爆弾テロによって暗殺されている。ブルガリアでは英雄になったのに、故国ではねえ・・・。
国会議事堂 - 「統一は力なり」上の解放者騎馬像の向かいにあるのが、ブルガリアの国会議事堂(右の画像)。画像の中では小さすぎて読めないけど、議事堂の入り口の上には、「統一は力なり」と書いてある。 14世紀のブルガリアが分裂の極みにあったために、進出してきたオスマン・トルコに対して満足な抵抗も出来なかったことに対する反省の言葉だろうかねえ。
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