東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記 「初秋のブルゴーニュ」 (フランス)

ディジョン、ジュヴレ・シャンベルタン、ボーヌ、ペルージュ、リヨン

h2. リヨン 略年表

BC 600 マルセイユに古代ギリシャ人が定住した。彼らは内陸部にまで交易の輪を広げた。
BC 58 イタリアのローマを出発し、ガリア(今のフランス)に遠征する途上の古代ローマ帝国のシーザー(カエサル)が、この地を通過。
BC 43 ローマ元老院の承認の許、ルグドゥヌム(リヨンの起源)が建設された。建設したのはシーザーの副官だった人物。場所は現在のフルヴィエールの丘であった。
BC 16 初代ローマ帝国皇帝アウグストゥスの命により、ルグドゥヌムがガリア・ルグドゥネンシスの都とされた。
AD 43 リヨン生まれの古代ローマ帝国皇帝クラウディウスによって、ブリタニア(イギリス)にロンディニウム(ロンドン)が建設された。
AD 2c リヨンからガリア一帯にキリスト教が広まった。
AD 212 リヨン生まれの古代ローマ帝国皇帝カラカラがローマにカラカラ浴場を建設した。
AD 275 ゲルマン族がリヨン付近に侵入。フルヴィエールの丘の水道が破壊され、人々は丘を捨てた。ここからリヨンの衰退が始まった。
AD 457 ブルグンド族が定着。
AD 534 フランク王国がブルグンド王国を破り、ブルグンド王国は崩壊した。しかし、ブルグンドは、その名を「ブルゴーニュ」に残した。
AD 843 シャルルマーニュ(カール大帝)の帝国の分割に伴ない、リヨンはロタールの王国に帰属した。
AD 1032 リヨンは神聖ローマ帝国に帰属した。
AD 1157 神聖ローマ皇帝バルバロッサにより、リヨン大司教がリヨンの支配者とされた。
AD 1167 近隣にあるペルージュの街がリヨン大司教が派遣した兵士たちに対して城門を閉ざして抵抗した。
AD 1209 フランス南部プロヴァンス地方・ラングドック地方に多い異端アルビ派(カタリ派)を掃討する為のアルビジョア十字軍がリヨンに集結した。
AD1240- リヨン市民が大司教に対して蜂起し、リヨンが自治都市となった。背後では、フランス王が市民を支援していた。
AD 1245 リヨンで公会議が開催された。その公会議のテーマの一つが十字軍の遠征だった。その討議に従い、西暦1248年にはフランス王ルイ9世(聖ルイ王)が第7回十字軍を率いて遠征に出発した。
AD 1312 リヨンが公式にフランスに帰属した。
AD 1347 マルセイユにペスト(黒死病)が上陸。やがてフランス各地に広がった。
AD 1420 フランス王太子(後にジャンヌ・ダルクに助けられてフランス王シャルル7世として戴冠する)が、リヨンにおける大市の開催を認めた。
AD 15c リヨンでは絹織物業が発展。
AD 1536 フランス王フランソワ1世がリヨンに絹織物についての特許状を与えた。
AD 1572 パリサン・バルテルミーの虐殺が起き、ローマの教皇に従うカトリックが多数派だったリヨンでも多くのユグノー(プロテスタント)が虐殺された。
AD 1600 マルセイユに上陸した新婦のマリー・ド・メディシス(メディチ)を新郎のフランス王アンリ4世がリヨンで出迎えた。
AD 17c リヨンはヨーロッパの絹の都となった。
AD 1793 - フランス革命に伴なう戦乱、国内市場の衰退、経済封鎖に伴なう海外市場の喪失により、リヨンが衰退した。
AD 19c リヨンの復興。
AD 1871 - 普仏戦争におけるフランスの敗戦。しかし、リヨンはプロシア軍の占領を免れた。
AD 1884 リヨンにノートルダム・ド・フルヴィエール教会が完成した。
AD 1900 小説「星の王子さま」の作家サン・テグジュペリがリヨンの貴族の家に生まれた。
AD 1940 - リヨンはナチス・ドイツに対するレジスタンスの根拠地となった。


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