アルルの円形闘技場の上に登った古代ローマ帝国時代に築かれたアルルの円形闘技場を下から見上げ、内部を見て歩いたら、次は上から眺めないとね。
というわけで、上の画像がアルルの円形闘技場の上の様子なんだ。しかし、2000年も崩れなかったから上部で安心できると考えるべきか、あるいは逆に2000年も建ち続けていたんだからそろそろ崩れると考えるべきか。ちょっとしたスリルはあるよね。
アルルの街とローヌ川を眺めたでも、この円形闘技場の上からの眺めは素晴らしい。アルルの家々の赤い屋根の波の向こうにはローヌ川の流れも見える。
紀元前600年頃にマルセイユに住み着いた古代ギリシャ人たちも、あのローヌ川を遡ってガリア(今のフランス)内陸部の人々と交易を行った。紀元前122年にエクサン・プロヴァンスを築いた古代ローマ帝国は、このアルルを占領した後、同じくローヌ川を遡り、今のフランス第2の都市リヨン(当時はルグドゥヌム)を建設したんだそうな。このローヌ川は地中海と内陸部を結ぶハイウェイだったというわけだ。
アルル、古代ローマ帝国、西ゴート族、サラセン人、フランク族 ・・・古代ローマ帝国の西部において、アルルは重要な拠点だった。イタリア本土とイベリア半島を結ぶ位置にあり、しかもローヌ川はガリア(フランス)内陸部と地中海を結んでいた。というわけで、古代ローマ帝国の西部で軍事作戦を行う皇帝たちは、このアルルに司令部を置いたんだそうな。後に古代ローマ帝国の首都をコンスタンティノープルに移した皇帝コンスタンティヌスにとってもアルルは気に入りの街だったらしい。アルルの街には彼が築いた浴場跡も残っている。ちなみに、彼の息子のコンスタンティヌス2世は、西暦316年にアルルで生まれたんだそうな。 ところが、古代ローマ帝国の衰退はアルルにも影響を与え始める。西暦426年には西ゴート族がアルルを襲っている。西暦476年に古代ローマ帝国(西ローマ帝国)が滅亡した後、西暦480年には西ゴート族によってアルルが占領された。 その後も西ゴート王国を滅ぼしたイスラム教徒のサラセン人によって襲撃され、占領され、続いてはフランク族によって征服された。西暦855年にはフランク族のアルル王国の首都となった。西暦933年にはブルグント王国と統合された新しいアルル王国が成立している。 西暦1032年にはアルル王国の王ルドルフ3世が亡くなり、アルル王国は神聖ローマ帝国の皇帝コンラッド2世が継承した。そんなわけで、西暦1178年には神聖ローマ帝国皇帝フレデリック・バルバロッサがアルルに来たんだそうな。 西暦1208年には、アルルの街でピエール・ド・カステルノーという人物が暗殺された。彼はプロヴァンス地方・ラングドック地方に多い異端アルビ派(カタリ派)の問題に対処する為に派遣されたローマ教皇の特使だった。その特使が暗殺されたということで、アルビジョア十字軍の遠征を惹き起こすことになった。その結果、西暦1226年にはフランス王ルイ8世獅子王の軍によるアビニョン攻略に至った。 西暦1239年にはプロヴァンス伯領に帰属することとなった。そのプロヴァンス伯領の中心はエクサン・プロヴァンスに置かれたことから、このアルルは衰退していったんだそうな。 ところで、西暦1246年にプロヴァンス伯の娘が結婚した相手は、フランス王ルイ8世獅子王の息子でルイ9世聖王の弟のシャルル・ダンジューだった。やがてプロヴァンス伯を継承した彼は、プロヴァンスやフランスの兵を率いてシシリア島やナポリを占領して王を称している。そして西暦1480年、プロヴァンス伯ルネ・ダンジューが亡くなり、やがてプロヴァンス伯領はフランス王の手に落ちることになる。
それから数十年後の西暦1564年、フランス王シャルル9世と王母カトリーヌ・ド・メディチがアルルにやって来た。そこで予言者ノストラダムスが二人に謁見したんだそうな。ちなみに、カトリーヌ・ド・メディチと夫のアンリ2世は、「ノストラダムスの大予言」の出版の直後にノストラダムスをパリに呼んで会ったらしいけどね。
アルルの街を歩こうというわけで、アルルの歴史の話が長くなってしまったんだけど、円形闘技場からの眺めに戻ろう。
上の画像は円形闘技場の上から見下ろしたアルルの通りの様子なんだけど、今から下へ降りて、街の通りを歩こうというわけだ。
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