ポン・デュ・ガール 古代ローマ帝国時代の水道橋やがて到着したのが、ポン・デュ・ガール 古代ローマ帝国時代の水道橋だね。下の画像の奥に見えるのがその水道橋なんだけど、手前のオリーヴの木も樹齢千年という古木なんだ。ありきたりの場所ならばこのオリーヴの木も主役をはることができそうだけど、さすがに二千年の歴史を誇るポン・デュ・ガールの前では脇役になっちゃうよね。
このポン・デュ・ガールは古代ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの婿にして軍事担当の側近だったアグリッパによって、紀元前19年頃に築かれたんだそうな。最近はそれよりも数十年遅く造られたという説もあるみたいだけどね。(ついでながら、アグリッパはローマのパンテオンを建てたことでも知られている。)
余談ながら、皇帝アウグストゥスはこのアグリッパに、あるいはアグリッパと自分の娘との間に生まれた孫たちに後継者たることを期待したこともあったらしい。でも、アグリッパも孫たちも自分よりも先に亡くなってしまった。その結果、結局は古代ローマ帝国の第2代皇帝ティベリウス(初代とは血縁関係は無い)が即位したわけだ。その次の第3代皇帝カリグラ(狂気の独裁者とされる)は初代アウグストゥスの血縁だったけどね。
ニームに水を供給したポン・デュ・ガールこのポン・デュ・ガールは、水源であるユゼスから古代ローマ帝国時代の街ニームまでを結ぶ水道橋の一部だった。ユゼスとニームとの直線距離は 20kmほどなんだけど、間にある山などを迂回しているために、水道橋の総延長は 50kmにも達するんだそうな。
水源地ユゼスの泉の海抜は 76メートル。対して、水道橋のゴールとなるニームの街の貯水タンクの海抜は 59メートル。つまり、50kmを運んで海抜差は 17メートル。つまり、1kmにつき 34cmだけ低くなるわけだ。
領主や司教によって維持されたポン・デュ・ガールフランス南部プロヴァンス地方に進出してエクサン・プロヴァンスの街を築いた古代ローマ帝国は、更に内陸部にまで進んでリヨンを築き、海を渡ってブリタニア(イギリス)にロンドンまで建設した。ポン・デュ・ガールはそんな発展する古代ローマ帝国を象徴していたのかもしれない。ところが、ゲルマン系諸族の侵入が頻発する4世紀になると、ポン・デュ・ガールを含む水道橋の維持ができなくなってしまった。そして水道橋の上にある水路の中には屑などが溜まり始め、泥や苔なども付着し始めた。そんな付着物の厚さが 50cmに達する場所も有るんだそうな。その結果、ニームにまで水が流れなくなったのが9世紀のことだった。
それでもポン・デュ・ガールが破壊されずに維持されたのは、それがガール川(ガルドン川)を渡る為の橋として役立ったからだった。
ポン・デュ・ガールの高さ49メートル、長さ275メートルもう一度上の画像を見て欲しいんだけど、このポン・デュ・ガールは三層構造になっているんだ。そして下の画像は、その最下層の上の様子。
最下層といっても川面からの高さは22メートルとういから、5階建てのビルの屋上よりも高いのかもしれない。それでいて手すりも何もないんだ。川面を見下ろすアングルでシャッターを押したかったんだけど、スリルがありすぎて端っこに近寄ることも出来ず。とても川面を見下ろすアングルでカメラを構えることも出来ず。おかげで上の画像のような根性無しのアングルでシャッターを押した私だった。
多くの観光客を集めるポン・デュ・ガール水道橋なんだけど、当然ながらそれは今に始まったことじゃなかった。昔から様々な人々がここに来て感嘆していたんだ。例えば西暦1564年にやって来たフランス王シャルル9世と王母カトリーヌ・ド・メディチ。西暦1660年にはフランス王ルイ14世太陽王もここに来ている。
余談ながら、スペインの街セゴビアにも古代ローマ帝国時代の水道橋が残っている。そのセゴビアのアルカサル(城館)は、ハプスブルク家のスペイン王カルロス1世(皇帝カール5世)やフェリペ2世が改築しているから、彼らも古代の水道橋を眼にしただろうね。
ついでながら、スペイン北東部カタルーニャ地方の州都バルセロナにもかつて古代ローマ帝国時代の水道橋があった。でも、今では地上には全く何も残っていないんだ。
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