プロヴァンス地方の港町マルセイユに到着ニームの街を出発し、やってきたのはフランス南部プロヴァンス地方の港町マルセイユだった。
上の画像がそのマルセイユの風景なんだけど、丘の上にあるノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院からの景色なんだ。
マルセイユの丘の上のノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院上の画像を撮影したマルセイユの丘の上のノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院の内部の様子が下の画像。
元々は13世紀に創建された教会なんだそうな。でも、今の建物は19世紀の後半に建てられたもの。地中海に面した港町マルセイユの教会らしく、その内部には船の絵が無数に飾られている。海難事故で助かった人々が聖母マリアに感謝を捧げるために奉納したものなんだそうな。
歴史ある港町マルセイユノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院の外に出て、海抜162メートルの丘の上から再び港町マルセイユと地中海を眺める。この地中海から様々な歴史が上陸したのがマルセイユだった。そもそもは紀元前600年頃に古代ギリシャ人が定住してマルセイユを築いたんだ。その古代ギリシャ人たちは、周囲の人々と交易を行い、更には交易の拠点を広げていった。今のニースやモナコ公国などもマルセイユの古代ギリシャ人が築いた交易拠点が基礎となっている。 但し、古代ローマ帝国のカエサル(シーザー)とポンペイウスが対立した時にポンペイウスの側に立って戦ったマルセイユは、古代ローマ帝国に征服され、しばし雌伏の時代があったんだそうな。 やがて地中海有数の港町として復活したマルセイユだったけれども、西暦1347年にはペスト(黒死病)がマルセイユに上陸し、そこから周辺各地、フランスの首都パリ、アルザス地方、更にはロンドンやスコットランドなどにも感染が広がっていったんだそうな。
西暦1533年には、イタリアの古都フィレンツェからやって来たカトリーヌ・ド・メディチと後のフランス王アンリ2世との結婚式もマルセイユで行われたらしい。後にはこのカトリーヌ・ド・メディチの統治下にユグノー(ジャン・カルヴァンに従うフランスのプロテスタント)とローマの教皇に従うカトリックとの激しい対立が続き、サン・バルテルミーの虐殺なども起こるわけだ。
モンテ・クリスト伯で名高いシャトー・ディフ(イフ島)ところで、マルセイユの港の沖合いにいくつかの島があるんだけど、その一つに城があるんだ。下の画像では左手の手前の島なんだけどね。
この島の名前がイフ島、そして城の名前はシャトー・ディフ。あのモンテ・クリスト伯が14年間も投獄されていたのが、このイフ島にある城シャトー・ディフの中の牢獄だった。
その「モンテ・クリスト伯」とは関係ないんだけど、このマルセイユの沖の地中海には、小説「星の王子さま」の作家サン・テグジュペリが操縦していた飛行機が沈んでいたんだそうな。彼は第二次世界大戦中に自由フランス軍の偵察機を操縦していたんだけど、ドイツ軍の戦闘機によって撃墜されたのかもしれない ・・・ らしい。どうもはっきりしないんだけどね。
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