東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記 「夏のプロヴァンス」 (フランス)

エクサン・プロヴァンス、ラヴェンダー、ヴァレンソール、ムスティエ、セナンク、ゴルド、マルセイユ

06. ムスティエ・サント・マリーの村

ムスティエ・サント・マリーの村を散歩

ムスティエ・サント・マリーの村にある陶器屋さんを何軒か見て歩き、ムスティエ焼きの陶器も買った。というわけで、満足して村を散歩だ。初夏のプロヴァンスのそよ風が心地良い。

フランス南部プロヴァンス地方のムスティエ・サント・マリーの村の風景

その散歩の途中で目にした眺めが上の画像。中央やや右に少しだけ見えているのが、村の教会みたい。ちょいと行ってみるかな。

ムスティエ・サント・マリーの村の教会

というわけで、やってきたのが下の画像にある村の教会。12世紀の教会なんだそうな。小さな村の古い教会の前の広場はとっても狭くて、教会の建物の全体像を撮ることもできなかったよ。

フランス南部プロヴァンス地方のムスティエ・サント・マリーの村の教会

上の画像に写っている鐘塔は、村の自慢のものらしい。高さ22メートルのこの塔も12世紀のものらしいけど、今も現役で鐘の音を村に響かせているんだそうな。

ムスティエ・サント・マリーの村の歴史

このムスティエ・サント・マリーについての資料は本当に少なくて、調べるのにも苦労するんだけど、村の歴史を簡単にまとめてみた。(下の画像は村の教会の内部。ロマネスク様式で窓は殆ど無いね。)

フランス南部プロヴァンス地方のムスティエ・サント・マリーの村の教会の内部

5世紀頃、このあたりの洞窟に住み着いた修道士が小さな修道院を建てた。そんなわけで村にはサント・マリー(聖マリア)という名前が付いているんだそうな。

イベリア半島がイスラム教徒の支配に落ちた後、10世紀から11世紀にかけてイスラム教徒の襲撃が続き、人々は洞窟に隠れ住んだらしい。12世紀から13世紀にかけて城砦が築かれたんだそうな。(上の画像にある村の教会のこの時代のものかな。)

西暦1348年にはペスト(黒死病)の大流行があり、加えてプロヴァンス伯領の継承に関する戦いもあって、人口が大きく減少したらしい。でも、16世紀からは山々の豊かな水や水力を利用し、革なめし産業や製粉業が起こり、村は反映したんだそうな。

でも、17世紀からは気候の悪化などもあり、再び村は衰退してしまった。そして今のムスティエサント・マリーの村の人口は700人ほど。人口密度は 1平方kmあたり 8人とのこと。

ちなみに、イギリスの首都ロンドンの人口密度は 1平方kmあたり 5千人、フランスの首都パリの人口密度は 1平方kmあたり 2万人だそうな。ついでながら、私の郷里である愛媛県の県庁所在地である松山市の人口密度は 1平方kmあたり 1,200人だとか。

ムスティエ・サント・マリーの村のカフェにて

村の散歩にも疲れた。ひと休みしようと村の小さなカフェに入った。地元の人々の集まるカフェだったよ。

しかし、カフェの主人は全く英語を話すことができない。私たちはフランス語は全くわからない。でも、カフェの主人の頑張りに加えて、カフェにいた村人たちも皆さんで助けてくれて、なんとか注文することができた。

フランス南部プロヴァンス地方のムスティエ・サント・マリーの村のカフェからの眺め

上の画像は、そのカフェのテーブルからの眺めなんだ。緑の豊かな村だよね。周囲の山々では良い土が採れるらしい。しかも、山々に囲まれた渓谷にはきれいな水が流れている。しかも、森からは木材(つまり陶器を焼く窯の燃料)が産出される。そんなわけで、ムスティエ・サント・マリーは焼き物の村となったわけだね。


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