東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

パリに住んだ...つもりの 9 日間

パリ + ロワール・ノルマンディ・シャルトル
(フランス) 2000年9月


サン・ドニ聖堂にあるフランス王家の墓
4. ピピン3世(小ピピン) (カロリング家)

カロリング家によるフランク王国の支配を実質的に確立したのはカール・マルテルだが、名実共にメロヴィング家の初代フランク王となったのは、この小ピピン(ピピン3世)だった。

当地の初期においては、メロヴィング家のキルデリック3世を名目的な王としていたが、751年には小ピピン自らがフランク王国の王(教皇による戴冠は754年)となるや、キルデリック3世やその息子は修道院に幽閉されちゃったんだ。

小ピピンは768年に死去(その墓碑が下の画像)。しかし、その継承者たる二人の息子の一人が、後に皇帝となるシャルルマーニュ(カール大帝)だったわけさ。

カロリング家のピピン3世(小ピピン)の墓碑(サン・ドニ聖堂、フランス)




カロリング家の初代フランク王
ピピン3世(小ピピン) 略年表

  • 741年、カール・マルテル死去。彼の息子二人カールマンと小ピピン(ピピン3世)が、フランク王国を二分して支配した。

  • 747年、カールマンが出家し、イタリアのモンテ・カッシーノ修道院に引きこもった。以後、小ピピン(ピピン3世)がフランク王国全土を支配する。

    同じ年、小ピピンの息子シャルル(後のシャルルマーニュ=カール大帝)が誕生。

  • 751年、フランク人貴族たちの支持を受けた小ピピン(ピピン3世)がフランク王となった。

    名目的なフランク王だったメロヴィング家のキルデリック3世とその息子は修道院に幽閉された。

  • 754年、パリ郊外のサン・ドニ聖堂において、教皇ステファヌス2世の手により、小ピピン(ピピン3世)がフランク王としての戴冠を受けた。

  • 756年、ピピンの寄進。ラヴェンナサン・マリノ周辺の土地が、小ピピンによって教皇領として教皇に寄進された。ローマ周辺のみを支配していた教皇が、イタリア中部に支配領域を広げることとなった。

  • 759年、小ピピンが現在のフランス南部を制圧し、ガリア全土の支配者となった。

  • 768年、小ピピン(ピピン3世)死去。その息子たちシャルルマーニュとカールマンが王位を継承した。

  • 771年、カールマン死去。やがて皇帝となるシャルルマーニュ(カール大帝)が単独でフランク王国の支配者となった。


フランス王家の墓

【参考】都市別ツアー


【参考】ホテル検索



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