東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

春のイングランド南部の旅(イギリス)

05. アンセルムスと殉教者トマス・ベケット

カンタベリー大聖堂の中のステンド・グラス

カンタベリー大聖堂の中のステンド・グラス(イングランド、イギリス) 英国国教会の総本山であるカンタベリー大聖堂の中に入る。そこには数え切れないほどのステンド・グラスがあるんだ。しかも、それがとっても古いものだったりする。

例えば右のステンド・グラスはほぼ14世紀のもの、一部には12世紀や13世紀のものもあるらしい。

描かれているのは、使徒たちやイングランド王たちなんだそうな。例えば、征服王ウィリアム1世(ノルマンディー公ウィリアム)は一番上の段の左から二人目だったりする。その左側はデーン人のイングランド王クヌートじゃないかと考えられているらしい。

カンタベリー大聖堂のステンド・グラスの中のアンセルムス

そんなカンタベリー大聖堂のステンド・グラスの中でも、下の画像にある一枚は非常に興味深いものなんだ。誰が描かれているかといえば、左からイングランド王ウィリアム2世大司教ランフランク大司教アンセルムス大司教ボールドウィンイングランド王ヘンリー1世という 5人。

カンタベリー大聖堂のステンド・グラスに見るランフランとアンセルムスたち(イングランド、イギリス)

最後から二番目の大司教ボールドウィンはちょいと別なんだけど、残り 4人の関係が非常に興味深い。

カンタベリー大聖堂の大司教アンセルムスと
イングランド王ウィリアム2世・ヘンリー1世

西暦1089年、カンタベリー大聖堂の大司教ランフランクが亡くなった。その後任として人々が期待していたのが、アンセルムスだった。ところが、時のイングランド王ウィリアム2世は大司教の後任を指名しなかった。大聖堂の財産を我が物にしようという腹だった。

そして西暦1093年になった。病気になり先が危ぶまれた王が、突如としてアンセルムスを大司教に指名した。しかし、回復した王は、大聖堂の財産や聖職者叙任権などをめぐってアンセルムスと対立したんだそうな。

西暦1100年にイングランド王ウィリアム2世が亡くなった。その王位を継承したのは弟のヘンリー1世だった。新王とアンセルムスとの間でも、大聖堂の財産や聖職者の叙任権について対立が続いたらしい。その結果、海外に追放されたアンセルムスは、3年間もイングランドに戻れなかった。

しかし、西暦1107年にようやく王とアンセルムスとの合意が成立し、大司教は信仰の暮らしに戻ることが出来たんだそうな。しかし、その信仰の日々は短く、2年後の西暦1109年にはカンタベリー大聖堂の大司教アンセルムスが亡くなっている。そんなアンセルムスは、西暦1494年にローマ教皇アレクサンデル6世によって列聖され、聖人となっている。

イングランド王ウィリアム2世について補足

上の画像のステンド・グラスの一番左側に描かれ、大司教アンセルムスと対立したイングランド王ウィリアム2世についてちょいと補足。彼は征服王ウィリアム1世(ノルマンディー公ウィリアム)の息子だった。西暦1087年に父王が亡くなった時、兄のロベールがノルマンディーにいたことを幸いにイングランド王を継承したんだそうな。

ウィリアム2世は西暦1093年にはスコットランド王マルカム3世を戦いで打ち破り、戦死させている。このマルカム3世は、シェイクスピアが作品に取り上げたマクベスに殺害されたスコットランド王ダンカン1世の息子で、そのマクベスを戦いで殺した人物だったりする。

このイングランド王ウィリアム2世が亡くなった時、兄のロベールは存命だった。でも、ノルマンディー公だからしてイングランドにはいなかった。その結果、イングランド王位を継承したのは弟のヘンリー1世だった。この長兄のロベール、運が無いのか、間抜けなのか、 ・・・ 。

カンタベリー大聖堂の大司教にして殉教者トマス・ベケット

話がかなり横道にそれて明後日の方まで行ってしまったね。カンタベリー大聖堂に戻ろう。その大聖堂の奥の祭壇の横に、黒い錆びた剣のようなものがかけられている壁(下の画像)がある。

カンタベリー大聖堂の中にある大司教トマス・ベケットの殉教の現場(イングランド、イギリス)

西暦1170年12月29日午後4時、カンタベリー大聖堂の祈祷に参加していた大司教トマス・ベケットが、4人の刺客によってここで殺害された。永年にわたって大司教トマス・ベケットと対立していたイングランド王ヘンリー2世の暗黙の ・・・ 指示によってカンタベリー大聖堂の大司教トマス・ベケットが殺害された、と信じられている。

大司教トマス・ベケットとイングランド王ヘンリー2世の対立と殉教

トマス・ベケットはイギリスの首都ロンドンで西暦1118年に商人の息子として生まれたらしい。やがてカンタベリー大聖堂の助祭となっていたトマス・ベケットをカンタベリーの大司教が西暦1155年にイングランド王ヘンリー2世に紹介した。やがてトマス・ベケットはヘンリー2世の為に大法官として働き、外交や軍事でも貢献したらしい。

西暦1161年、カンタベリー大聖堂の大司教シーオボルドが亡くなった。ヘンリー2世はトマス・ベケットにカンタベリーの大司教となるように要請。しかし、トマス・ベケットは躊躇した。トマス・ベケットは「大司教は神と王との二人の主人に使えることは出来ない。」と言ったらしい。上に書いたようなアンセルムスとイングランド王たちとの対立もトマス・ベケットの脳裏にあっただろうね。

でも、西暦1162年にはトマス・ベケットがカンタベリー大聖堂の大司教に就任した。直ちに彼は貴族たちによって横領されていた教会の土地などの返還を要求し、イングランド王や貴族たちと対立を始めたんだそうな。その翌年には、教会の土地に対する徴税の権限や聖職者に対する裁判の権限などをめぐって、大司教トマス・ベケットとヘンリー2世との対立が更に激しくなったらしい。

イングランド王ヘンリー2世は更に王権を強化するために、教会の一層の譲歩を求める。それを拒否する大司教トマス・ベケットは西暦1164年にイングランドを去り、フランス王ルイ7世の保護を受けたらしい。更に西暦1166年には大司教トマス・ベケットはイングランド王ヘンリー2世に破門状を送りつけた。

カンタベリーの大司教トマス・ベケットとの長期にわたる対立は、イングランド王ヘンリー2世のヨーロッパにおける外交上の孤立をもたらした。その孤立を抜け出そうとしたヘンリー2世は、フランス王の仲介を得て大司教と和解した。その和解により、西暦1170年にトマス・ベケットがイングランドに帰国。カンタベリーにおいて大司教は人々によって熱狂的に迎えられたんだそうな。

その年の12月29日午後4時、カンタベリー大聖堂で祈祷に参加していた大司教トマス・ベケットが祭壇の前で4人の刺客によって殺害された。トマス・ベケットは殉教者とされ、直ちにローマの教皇庁はトマス・ベケットを聖人として列聖したんだそうな。

殉教の歴史 ・・・

アンセルムスはすんでのところで殉教を免れたけど、古代ローマ帝国の時代からキリスト教の信仰には殉教が少なくないよね。古くは古代ローマ帝国の皇帝ネロによるキリスト教徒迫害がある。

フランスのパリにあるモンマルトルでは聖ドニ(サン・ドニ)が処刑された。今のトルコでは聖ジョージ(セント・ジョージ)も処刑された。このイギリスでも聖アルバンが殉教している。このページで取り上げたトマス・ベケットもそんな殉教の歴史の中の一人ということなんだね。

トマス・ベケットとフランス王フィリップ2世尊厳王

上にも書いたけど、イングランド王ヘンリー2世と対立してフランスに逃れていたトマス・ベケットを保護したのは、フランス王ルイ7世だった。ヘンリー2世の奥さんのエレアノールは、かつてそのルイ7世と結婚していた。なかなか因縁のある関係だよね。

そのエレアノールと別れたフランス王ルイ7世は別の女性と再婚したものの、なかなか男子を得ることが出来なかった。やがて待ち望んだ男子が生まれたんだけど、その子は病弱だった。その男子が重病に陥った時、フランス王ルイ7世は敵地であるイングランドのトマス・ベケット殉教の聖地であるカンタベリー大聖堂にまで巡礼に来たらしい。

その病弱だった男の子は、やがてフランス王フィリップ2世尊厳王(オーギュスト)となり、ヘンリー2世とエレアノールの息子のイングランド王リチャード獅子心王が築いた要衝ガイヤール城を攻略し、更にはノルマンディー地方を占領している。それが聖トマス・ベケットの御加護によるものかどうかはわからないけど。


次のページは 「06. 黒太子エドワード」



ヨーロッパ三昧 トップ・ページ

ヨーロッパの歴史風景

このサイト「ヨーロッパ三昧」には、下の姉妹サイトもあります。ヨーロッパに興味のある方は寄り道してくださいね。

ヨーロッパの歴史風景 バナー このサイト「ヨーロッパ三昧」の姉妹サイト「ヨーロッパの歴史風景」。ヨーロッパ各国の歴史に重点を置いてある。



Copyright (c) 2001-2013 Tadaaki Kikuyama
All rights reserved
このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。

このサイトの運営は、あちこち三昧株式会社が行います。