東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
イングランド南部の旅(イギリス)
1994年4月
イングランド王ヘンリー2世 - 栄光と孤独
(プランタジネット家の帝国と挫折)
- ノルマンディー公ヘンリーの誕生
- イングランド王位
- 一族の争い
- リチャード獅子心王
- ジョン失地王
1. ノルマンディー公ヘンリーの誕生
- 1135年、イングランド王にしてノルマンディー公であるヘンリー1世が死去。
王は娘のマティルダ(神聖ローマ皇帝ハインリッヒ5世未亡人)を相続人に指名していた。その結果、彼女の再婚相手であるアンジュー伯ジョフロワが、イングランドとノルマンディーを手中に収めるはずだった。
しかし、マティルダと同じくウィリアム征服王の孫にしてブロワ伯でもあるスティーブンが機先を制してイングランドに乗り込み、イングランド王と称した。
- 1144年、ヘンリー1世から相続した権利を主張するアンジュー伯ジョフロワがノルマンディーを占領し、ノルマンディー公を称した。
そのアンジュー伯は、戦いに際しては、エニシダ(金雀児 = プランタジネット)の枝を冑にさしていた。故に彼はジョフロワ・プランタジネットと呼ばれていた。
- 1150年、アンジュー伯にしてノルマンディー公でもあるジョフロワは、マティルダとの間に生まれた息子ヘンリー(後のイングランド王ヘンリー2世)にノルマンディー公の位を譲った。
- 1151年、フランス王ルイ7世との和解の為にパリを訪れたジョフロワと同行したヘンリーは、フランス王妃エレアノール(アキテーヌ公領相続人)と初めて出会った。
エレアノールの亡父アキテーヌ公ギョームにとって、アンジュー伯ジョフロワは時には敵として戦ったこともあったが、古い友人でもあった。
その時、エレアノールは29歳、ヘンリーは18歳だった。但し、ヘンリーは既に庶子をもうけていた。
その年の9月、アンジュー伯ジョフロワは、ロワール河のほとりで死去。
- 1152年3月21日、フランス王ルイ7世が所有するボージャンシー城に集まったフランスの高僧たちは、ルイ7世とエレアノールとが親戚であることを理由として、二人の結婚を無効であると宣言した。
翌日、エレアノールは父から相続したアキテーヌ公領に向かった。
同年5月18日、フランス王との婚姻が無効であるとされたエレアノールと、ノルマンディー公にしてアンジュー伯でもあるヘンリーが結婚した。
ここにノルマンディー・アンジュー・アキテーヌを支配する、フランス最大の封建領主が誕生した。
- 1152年7月、フランス王ルイ7世が、ヘンリーの弟であるジョフロワの支援を得て、ノルマンディーに侵攻した。フランスの半分を領有するヘンリーの力を削ぐことが狙いだった。ちなみに、その名目は、国王の許可を得ずに二人が結婚したこととされた。その罪を問うために、王は二人に出頭を命じたが、二人は王の命を無視していた。
その時、ヘンリーはイングランドに向けて侵攻するところであった。しかし、王の侵攻を聞いた彼は、ルイ7世の軍を撃ち破り、王は講和を結ばざるを得なくなった。
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