東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
イングランド南部の旅(イギリス)
1994年4月
イングランド王ヘンリー2世 - 栄光と孤独
(プランタジネット家の帝国と挫折)
- ノルマンディー公ヘンリーの誕生
- イングランド王位
- 一族の争い
- リチャード獅子心王
- ジョン失地王
3. 一族の争い
- 1167年、ヘンリー2世とエレアノールは別居を始めた。ヘンリー2世にはノルマン貴族の娘ロザモンドという愛人がいた。
- 1169年、ルイ7世の勧めに従い、ヘンリー2世は3人の王子たち(ヘンリー、リチャード、ジェフリー)にフランス国内の所領を分け与えた。ジョン王子は 2歳になったばかりだった為に、所領を授けられなかった。(これが「失地王」と呼ばれる理由であるとの説もある。つまり、Lackland(失地王)とは、「失地」ではなく「土地無し」との解釈。)
- 1170年6月14日、ヘンリー2世は息子ヘンリーにイングランド王位を譲った。もちろん、形だけのことであり、実権は握りつづけていた。
その年の12月29日、カンタベリー大聖堂において大司教トーマス・ベケットが殺害された。
- 1173年、ヘンリー2世の 3人の息子たち(形ばかりのイングランド王ヘンリー、アキテーヌ公リチャード、ブルターニュ公ジェフリー)は、ヘンリー2世と別居中の母エレアノールの支援を得て、またフランス王ルイ7世とも組み、父であるヘンリー2世に反旗を翻した。
フランス各地に広がるプランタジネット家の領地やイングランドでは、ヘンリー2世に対する反乱が起こった。
その年の夏、息子達と共にヘンリー2世に反旗を翻したエレアノールがポワティエ近郊で捕えられた。彼女はイングランドに送られ、幽閉の身となった。
- 1174年、各地の反乱を鎮圧したヘンリー2世が攻勢をかけ、3人の息子達は降伏した。息子達は今までと同じく各々の領土を支配することを許された。しかし、エレアノールはソルズベリーで幽閉されたままだった。
- 1177年、ヘンリー2世の愛人ロザモンドが死去。また、法王アレクサンデル3世に願い出ていたエレアノールとの離婚も却下された。
- 1179年、ルイ7世はフランス王位を息子のフィリップ(2世)に譲った。
- 1180年、ヘンリー2世の宿敵にしてエレアノールの前夫ルイ7世死去。
- 1183年、ヘンリー2世の息子たちが戦いを始めた。着実に領土を拡大するアキテーヌ公リチャード(後の獅子心王)に対し、名目上のイングランド王ヘンリーとブルターニュ公ジェフリーが戦いを挑んだ。
息子達の争いを、父であるヘンリー2世は静観していた。
しかし、その年の6月、形だけのイングランド王ヘンリー(ヘンリー2世の息子)は病に倒れ、28歳にして死去。兄弟の間の争いも終息した。
王家では、その後の処理に関する話し合いが行われ、既に幽閉されて10年になるエレアノールも参加した。ヘンリー2世は、溺愛する息子ジョンに権力を与えたがっていたが、エレアノールなどの尽力によりアキテーヌ公リチャードが後継者の座に近づいた。
- 1184年、アーサー王の遺骸が埋葬されていると信じられていたグラストンベリーの修道院が火災で焼失した。ヘンリー2世は、再建の為の資金を出した。
- 1186年、ブルターニュ公ジェフリーが槍試合の最中に落馬して死去。ヘンリー2世とエレアノールの息子達の中で残ったのは、後に獅子心王と呼ばれたリチャードと失地王と称されたジョンだけとなった。
- 1188年、アキテーヌ公リチャードは、ヘンリー2世と敵対するフランス王フィリップ2世と同盟した。
- 1189年、ノルマンディを舞台に、イングランド王ヘンリー2世とフランス王フィリップ2世との戦いが繰り広げられた。優位に戦いを進めるフィリップ2世の陣中には、ヘンリー2世の息子リチャードの姿があった。
不利な状況で講和をまとめたヘンリー2世は、病を得て床についた。病床に仕えていたのは、ヘンリー2世の庶子ジェフリーだけだった。ヘンリー2世に可愛がられていたジョン王子も、既にリチャードの側についていた。
- 1189年7月6日、56歳のヘンリー2世死去。失意の中での孤独な死だった。
やがて、15年間を越える幽閉が解かれ、王妃エレアノールが自由を回復した。既に67歳になっていた。
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