東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
イングランド南部の旅(イギリス)
1994年4月
イングランド王ヘンリー2世 - 栄光と孤独
(プランタジネット家の帝国と挫折)
- ノルマンディー公ヘンリーの誕生
- イングランド王位
- 一族の争い
- リチャード獅子心王
- ジョン失地王
2. イングランド王位
- 1153年1月6日、後顧の憂いを取り除いたヘンリーはイングランドに上陸し、イングランド王を称していたスティーブンとの戦いを始めた。
- その年の8月17日、ヘンリーとエレアノールとの間に男子が生まれ、征服王の名をとってウィリアムと名づけられた。
同じ日に、ヘンリーとイングランドの王位を争っていたスティーブンの嫡子ユースタスが死去。
- 同年11月6日、戦いを優位に進めていたヘンリーと、不人気の故に兵の募集も苦しんでいたスティーブンとの間に講和が成立した。カンタベリー大司教シーオボルドの仲介によるものだった。
和約により、ヘンリーがイングランド王位の後継者と定められた。
- 翌1154年10月25日、イングランド王スティーブンが死去。ついにプランタジネット家のヘンリーがイングランド王となる時がきた。ここにイングランドからピレネー山脈にまで至るプランタジネット帝国が成立する。
- 同年12月19日、ウェストミンスター・アビーにて、ヘンリー(2世)の戴冠式が行われた。
右の画像は、現在のウェストミンスター・アビー。
ウェストミンスター・アビーについて詳しくはココをクリック。
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王となってからのヘンリー2世は、内戦で荒れ果てたイングランドに秩序を取り戻し混乱を鎮める為に、国内を走り回った。
彼は各地の下級領主を内政に重用し、中央集権化を進めた。
- 1155年、ヘンリー2世とエレアノールに次男ヘンリーが誕生。
- 1156年、3歳になった長男ウィリアムが死去。
- 1158年、イングランド王ヘンリー2世は、カンタベリー大司教トーマス・ベケットをパリに派遣し、争いつづけていたフランス王ルイ7世(エレアノールの前夫)と和睦した。
その結果、ヘンリー2世の次男ヘンリーとルイ7世の娘マルグリットとの婚約が整えられた。(もし、ルイ7世に嫡男が生まれなければ、王子ヘンリーはフランスの王位をも得ることになる。)
- 1159年、ヘンリー2世は2歳になる息子リチャード(後の獅子心王リチャード)とバルセロナ伯爵ラモン・ベレンゲール5世との婚約をまとめた。計画中のトウールーズ攻略の下準備である。
その年の夏、ヘンリー2世はトウールーズを包囲した。しかし、ルイ7世の妨害により、包囲を解かざるを得なくなった。
- 1162年、ヘンリー2世はトーマス・ベケットをカンタベリー大司教とした。
- 1166年、ヘンリー2世とエレアノールとの間に王子ジョン(後の失地王ジョン)が生まれた。
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