東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

スコットランドの旅(イギリス)

01. ブレア城とカロデン古戦場

ロンドンから徹夜でドライブ

イギリス全図 この旅行の計画を立てたのは数ヶ月前のこと。2ヶ月前には、全てのホテルと交通機関の手配も済ませた。準備は完璧だった。

この旅行は、基本的には自分の車を運転してスコットランドを走り回るんだけど、ただロンドンからスコットランドのエディンバラまでは列車に車を載せ、自分たちも列車に乗ってのんびりと眠って行く ・・・ はずだった。

ところが、イギリス国鉄のストライキが発生し、私たちと車を載せてエディンバラまで夜中に走るはずだった列車がキャンセルされちゃったんだ。

このスコットランド旅行自体をキャンセルすることも考えた。でも、数ヶ月前から計画し、とっても楽しみにしていた旅行だし、ホテルも何もかもすべて手配してあるし、会社の休暇はとってあるし、どうしても行きたい。

というわけで、8月の金曜日、朝から予定通りに出社し、一日の仕事を済ませ、少し早めに帰宅して、夕方にはロンドンの自宅を出発。自分で車を運転してスコットランドへ向かった。ロンドンから今夜の目的地のインヴァネスまでは約 900km は越えるよな。 1,000km はないと思うんだ。もちろん初めて走る道だし、夜中だし、・・・ ともかく気をつけて運転しなきゃね。

暗い森に浮かび上がる白亜のブレア城

夜明け近くの時点で既にエディンバラを通過し、今日の目的地のインヴァネスまで 80マイル ( 128km )の地点を走っていた。その付近のブレア・アトールという場所にあるのが、下の画像のブレア城。

スコットランドの森の中にある白亜のブレア城(イギリス)

ロンドンから徹夜で運転を続けてきたんだけど、家内の観光スケジュールに従って、このブレア城を見に来たわけだ。もちろん早朝だから扉は閉ざされている。でも、薄暗い森の中に浮かび上がる白亜のブレア城は目が覚めるほどに美しかったよ。

インヴァネスに到着、しかしホテルの部屋にはまだ入れず

やがて今日の目的地のインヴァネスに到着した。徹夜でドライブしてボケた頭で予約してあるホテルを捜し出す。が、こんな早朝に部屋に入れるわけもない。チェック・インは午後 2 時だそうだ。ま、そんなもんだろうな。

仕方がない。ともかくインバネス市内の観光に出発する。気合十分の家内は、綿密に作り上げた観光スケジュールのノートをチェックしている。家内は昨夜も車の中で少しは眠っているからね。

ハイランドの人々の夢が砕けたカロデンの古戦場

眠い目をこすりながら車のハンドルを握り、インヴァネス市内から 6マイル ( 10km )ほど走り、到着したのは下の画像にある古戦場カロデンの荒野だった。

スコットランドの古戦場カロデン(イギリス)

スコットランドの古戦場カロデンにあるメモリアル(イギリス) 確かに何も無い荒野ではある。でも、ここはスコットランドの人々にとっては、特にハイランドの人々にとっては特別な場所なんだ。だからカロデン古戦場の脇には、右の画像にあるようなメモリアルもあるわけだ。(しかし、さすがに徹夜の運転の後で私も疲れた顔をしている ・・・ )

話は西暦1688年に遡る。イギリスでの名誉革命の結果、スコットランド出身のスチュアート家のイギリス王ジェームズ2世(スコットランド王としてはジェームズ7世)が廃位され、オレンジ公ウィリアムとメアリーが王となった。しかし、それは終わりではなく、始まりだったんだ。

ボニー・プリンス・チャーリーとハイランドのジャコバイト派

名誉革命の後もイギリスの王位奪還を目指すスチュアート家。その戦いをスコットランドの、特にハイランドの一部(ジャコバイト派)が支持する。フランス王ルイ14世太陽王ローマの教皇を中心とするカトリックもスチュアート家を支持していた。そんなわけで、ジャコバイト派の反乱は、数十年に渡って何度も繰り返された。

そして西暦1745年にスチュアート家のボニー・プリンス・チャーリー(チャールズ・エドワード・スチュアート)が挙兵した。彼を支持するジャコバイト派の軍とイギリス政府軍は、西暦1746年にカロデンの荒野で激突した。しかし、このカロデンの戦いでジャコバイト軍は敗れ、スチュアート家の王位奪還の戦いはここに終わったわけだ。

しかし、このカロデンの戦いの後にイギリス政府はハイランド独特のタータン・チェックの衣装の着用を禁止したらしい。スコットランド奥地のハイランドのジャコバイト派をよっぽど警戒していたんだね。

補足なんだけど、西暦1822年にハノーバー家のイギリス王ジョージ4世がスコットランドを訪問し、そこでキルトを着用してハイランドのクラン(氏族)たちの謁見を受けた。そのキルト姿を見て、スコットランドの人々は大喜びをしたらしいよ。

スコットランド独立の是非を問う住民投票

とはいえ、それでスコットランドの人々が独立を諦めたわけじゃない。西暦2012年10月のことなんだけど、スコットランド自治政府のサモンド首相(スコットランド民族党の党首)は西暦2014年に独立の是非についての住民投票を行うことで、イギリスのキャメロン首相と合意したらしい。

そして西暦2013年11月、スコットランド自治政府の首相にしてスコットランド民族党の党首であるサモンド氏が独立後のスコットランドのあり方についての案を発表したらしい。独立スコットランドはイギリス・ポンドを通貨とし、エリザベス女王を元首とする。独自の軍を組織しつつ、欧州連合(EU)やNATOにも加盟する。更には北海油田のもたらす収入が財政のかなりの部分を支えるとか。

でもね、必ずしもスコットランドの人々がサモンド氏の描く独立後の姿を支持しているわけじゃないみたい。住民投票においてスコットランド独立が多数の支持を得る ・・・ とは予測されていないらしいよ。スコットランド大好きの私としては、とっても気になる状況だね。

私と同様にスコットランド独立の住民投票の行方を見守っているのが、スペインのバルセロナを中心とするカタルーニャ地方なんだ。フランス王ルイ14世が惹き起こしたスペイン継承戦争においても彼らは独立を目指していた。スペインの独裁者フランコ総統の支配下でもカタルーニャ地方は抑圧されていたんだ。そんな独立志向は今も続いている。スコットランドが独立すれば、カタルーニャも同様の動きを示そうとするだろうね。

ベルギー北部のフラマン語(オランダ語)地域の人々も同様だね。彼らはベルギー独立からずっと南部のワロン語(フランス語)地域の人々と対立を続けている彼らは、ベルギーからの独立を求める可能性があるんだ。多くの国や民族が複雑な歴史を持つヨーロッパ、一筋縄ではいかないね。

夢に終わったスコットランド独立

そして西暦2014年09月18日、スコットランドで独立をめぐる住民投票が行われた。即日開票の結果、独立反対の投票は 55パーセントを越え、賛成票は 45パーセントにも達しなかったらしい。スコットランド独立は夢に終わってしまったわけだ。

もしスコットランドが独立した場合、通貨をどうするのか、ピークを過ぎて生産量が大きく落ち込んでいる北海油田で財政を支えることが出来るのか、信用の低下するスコットランドからイングランドに移転する企業が続出して失業が増えるんじゃないのか ・・・ などなど、人々の不安を払拭できなかったということみたい。

スコットランドの独立を離婚と表現した政治家もいたけど、離婚後の生活がどうなるのかも大事だよね。離婚しなかったからといって、そこに愛があったのかどうかはわからんけど ・・・。


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