東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記「エーゲ海の旅(ギリシャ)」

15. ロードスの騎士団長宮殿

聖ヨハネ騎士団の騎士団長宮殿

聖ヨハネ騎士団ゆかりの教会から騎士団通り(イポトン通り)を歩けば、その西端にそびえているのが下の画像にある騎士団長宮殿なんだ。

ロードスにある騎士団長宮殿の外観(ギリシャ)

14世紀の初頭からロードス島を支配した聖ヨハネ騎士団の中枢だよね。そんな宮殿が位置しているのは、城壁に囲まれた中世のロードスの街の北西部、街の中でも最も高い場所なんだ。騎士団の軍港でもあったマンドラキ港からも見えていたよね。

騎士団長宮殿の歴史

ロードスの街が築かれたのは紀元前408年のこととされている。そして古代のロードスの街の人々が砦を建設したのが、この騎士団長宮殿のある場所だったと言われている。(下の画像は宮殿の中庭の様子)

ロードスにある騎士団長宮殿の中庭(ギリシャ)

そして7世紀にはロードスを統治していたビザンティン帝国がここに城砦を築いたらしい。その後、島の支配者となった聖ヨハネ騎士団はビザンティン帝国が築いた城砦を改築し、14世紀後半には騎士団長宮殿として使っていたんだそうな。

西暦1480年にオスマン・トルコ軍がロードスに侵攻した際には、砲撃によって騎士団長宮殿も損傷を受けている。更にはその翌年の地震においても宮殿には被害が生じたらしい。もちろん、聖ヨハネ騎士団は直ちに補修を行っているんだけどね。

そして西暦1522年のオスマン・トルコ軍のロードス島侵攻によって騎士たちは島を去り、新しい支配者は騎士団長宮殿を刑務所や武器庫として使っていたんだそうな。

ところが、西暦1856年にオスマン・トルコの火薬庫が爆発し、この騎士団長宮殿も大破してしまった。西暦1912年にロードス島を占領したイタリアは、西暦1937年にこの宮殿を再建している。当時のイタリア国王ヴィクトル・エマニエル2世とムッソリーニが島を訪れる際に歓迎式典を行うためだったとされている。

ラオコーン

ロードスの騎士団長宮殿の中にはラオコーンの間と呼ばれる部屋がある。そこで見ることの出来るのが下の画像にある彫像。どこかで見たことがあるかな。そう、イタリアの首都ローマヴァティカン美術館・博物館の中のピオ・クレメンティーノ美術館八角形の中庭にあるラオコーン像だよね。

ロードスにある騎士団長宮殿で見たラオコーンのレプリカ(ギリシャ)

上に書いたヴァティカンにあるものがラオコーン像のオリジナル(異説あり)と一般的には言われている。そして、このロードスの騎士団長宮殿にあるものはレプリカだ。でも、ラオコーン像の制作者は、この島の出身の三人の彫刻家だとされているんだそうな。

耐える、耐える、耐える

ロードスを支配した聖ヨハネ騎士団の騎士団長宮殿だったこの建物の広間の壁(下の画像)には、「 FERT FERT FERT 」という言葉が掲げられている。日本語に訳せば「耐える、耐える、耐える」という意味らしい。

ロードスにある騎士団長宮殿の壁には「耐える、耐える、耐える」(ギリシャ)

西暦1522年にオスマン・トルコ軍がロードス島に上陸した。その兵力は10万人にも達したらしい。対する聖ヨハネ騎士団の兵力は数千人に過ぎなかった。騎士たちはひたすら耐えて籠城を続けた。しかし、多勢に無勢、ついには和平を結び、島を敵に渡し、名誉ある撤退を選ばざるを得なくなったわけだ。

その後、西暦1530年に騎士団は新しい本拠としてマルタ島を与えられた。西暦1565年、そのマルタ島にもオスマン・トルコ軍や侵攻し、激しい戦い(グレート・シージと呼ばれる)が繰り広げられたそうな。

でも、この戦いにおいては聖ヨハネ騎士団はオスマン・トルコ軍を撤退に追い込むことに成功している。その翌年からマルタ島において騎士団が建設を始めた新しい要塞都市ヴァレッタ。そのヴァレッタにも彼らの騎士団長宮殿が残されている。


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