東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
ブダペストの春(ハンガリー)
1996 年 5 月
[ ハンガリー略年表 -3.]
選挙王制 ( 14 - 15c)
- 1301年、アールパード朝の断絶に伴ない、選挙の結果、プシェミスル家出身のボヘミア王ヴァーツラフ2世の次男ヴァーツラフ3世がハンガリー王に即位した。
- 1305年、ハンガリーでは王位争いが治まらず、選挙で選ばれたボヘミア出身のヴァーツラフ3世がハンガリー王位を放棄した。
- 1308年、アールパード朝の姻戚に当るイタリア南部のナポリ王国のアンジュー家出身のローベルト・カーロイがハンガリー王に即位した。
- 1312年、カーロイ王はハンガリー領スロヴァキアの大貴族チャク家を倒し、王権を強化した。
- 1342年、カーロイ王の子ラヨシュがハンガリー王に即位。その治世下に中世ハンガリー王国は最盛期に達した。彼はラヨシュ大王とも称された。
- 1346年、ラヨシュ王がブダに都を置いた。
- 1347−1381年、ヴェネツィアとの戦いが断続的に続いた。
- 1366年、バルカン半島に進出してきたオスマン・トルコとの戦いに勝利。
- 1370年、ポーランドのピャスト王朝が断絶し、姻戚に当るラヨシュ王がポーランド王に即位。
- 1382年、ラヨシュ王が死去。王位継承争いが起こった。
- 1385年、ルクセンブルク家出身のボヘミア王カレル1世の次男ジギスムントが、故ラヨシュ王の長女マーリアと結婚。
- 1387年、ルクセンブルク家のジギスムントがハンガリー王に即位。
- 1396年、ヨーロッパ各国から派遣された十字軍を率いたハンガリー王ジギスムントが、ニコポリスの戦いにおいてオスマン・トルコ軍に敗れた。
- 1411年、ルクセンブルク家出身のボヘミア王にして神聖ローマ皇帝であったヴェンツェルが死去。その実弟であるハンガリー王ジギスムントがボヘミア王に即位。
- 1419年、ボヘミアにおいてフス戦争が勃発。ジギスムント王はその対応に忙殺され、ハンガリー国内のマグナート(大貴族)の勢力が伸張した。
- 1433年、ルクセンブルク家出身のハンガリー王・ボヘミア王ジギスムントが神聖ローマ皇帝に即位。
- 1437年、トランシルヴァニアの農民達が蜂起。一旦は農民達に有利な妥協が成立したが、やがて貴族軍が農民軍を撃ち破り、農民達は更に重い負担を背負うこととなった。
- 1437年、ルクセンブルク家出身のハンガリー王ジギスムント死去。彼の娘婿に当るハプスブルク家のアルベルトがボヘミア王・ハンガリー王に即位。しかし、マグナート(大貴族)は更に勢力を強化しており、王の支配は名目的なものに過ぎなかった。
- 1438年、オスマン・トルコとの戦い。ハンガリー軍の指揮官はフニャディ・ヤーノシュだった。
- 1440年、ハプスブルク家出身のハンガリー王アルベルトの死後、ポーランドを支配するヤゲロ家のウラースロー1世がハンガリー王に選出された。
- 1444年、オスマン・トルコ軍とハンガリー軍とが衝突したヴァルナの戦いにおいて、ハンガリー王・ポーランド王ウラースロー1世が戦死。
- 1446年、オスマン・トルコとの戦いに活躍したフニャディ・ヤーノシュが摂政となった。
- 1453年、メフメト2世指揮下のオスマン・トルコ軍がコンスタンティノープルを攻略した。
- 1456年、フニャディ・ヤーノシュ指揮下のハンガリー軍が、ベオグラードにおいてメフメト2世の率いるオスマン・トルコ軍を撃ち破った。しかし、同年、フニャディ・ヤーノシュ死去。
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