東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
ブダペストの春(ハンガリー)
1996 年 5 月
[ ハンガリー略年表 -2.]
アールパード朝 ( 11 - 13c)
- 1038年、初代ハンガリー王である聖イシュトヴァーンが死去。
アールパード家内部では王位争いが起き、他方では伝統的な信仰の復活を求める民衆が反乱を起こした。
- 1077年、ラースロー1世がハンガリー王に即位。彼の許でハンガリーの統一が回復。
- 1083年、故ハンガリー王イシュトヴァーンとハンガリーのキリスト教化のために殉教したヴェネツィア人ゲッレールトが聖人に列せられた。
- 1089年、ラースロー1世がクロアティアに軍を派遣した。しかし、これがアドリア海に関心を持つビザンティン帝国を刺激し、ビザンティン帝国は遊牧民クマン人をハンガリー東部に進入させた。この為、ハンガリー軍はクロアティアから撤退。
- 1097年、ラースロー1世の子であるハンガリー王カールマーンがダルマティアを征服。ハンガリー王国はアドリア海への出口を獲得した。
- ベーラ2世がハンガリー王に即位。彼はボスニアを征服したが、その結果としてビザンティン帝国との対立が強まり、やがてボスニアやダルマティアから後退することとなった。
- 1156年、ビザンティン帝国の圧力に屈したハンガリーが、ビザンティン帝国の宗主権を認めた。ハンガリー王ゲーザ2世は息子ベーラ(後のハンガリー王ベーラ3世)を人質としてビザンティンに送った。
- 1172年、人質としてビザンティン帝国に送られていたベーラ3世がハンガリー王に即位。
- ベーラ3世がダルマティアを再征服。この頃が中世ハンガリー王国の第一期黄金時代となった。
- 1196年、ハンガリー王ベーラ3世死去。王位争いにより王権が衰え、国内が混乱した。
- 1205年、アンドラーシュ2世がハンガリー王に即位。
- 1211年、ハンガリー東部に侵入する遊牧民クマン族に対処するために、東部の土地をドイツ騎士団に与えた。
- ハンガリー王アンドラーシュ2世が十字軍に参加。
- 1222年、戦費負担のために財政が悪化し、アンドラーシュ2世は金印勅書の公布を余儀なくされた。金印勅書には貴族の権利を保護する条項が含まれており、その後のハンガリー貴族の強大化(王権の弱体化)を促す結果となった。
- 1223年、クマン族とロシアの連合軍が、黒海北岸においてモンゴル軍に敗れた。
- 1225年、ハンガリー東部で独立の動きを見せ始めたドイツ騎士団を追放。
- 1227年、モンゴルの圧迫を逃れてハンガリー東部に逃げ込んできたクマン族を受け入れ、彼らに洗礼を受けさせた。
- 1235年、ベーラ4世がハンガリー王に即位。
- 1237年、モンゴル軍総司令官バトゥのクマン族避難民の引渡の要求を拒否。
- 1239年、更に多くのクマン族避難民がハンガリー東部に逃げ込んできた。ベーラ4世は、クマン族をモンゴル軍に対する防壁としてハンガリー東部に定住させた。しかし、クマン族と土着の人々との間に対立が生じ、クマン族はブルガリアに移った。
- 1241年、バトゥとスブタイに指揮されたモンゴル軍がハンガリーに侵入。その間、モンゴル軍別働隊はポーランドに侵入し、リーグニッツの戦いにおいてドイツ・ポーランド連合軍を撃ち破り、転進してハンガリーに侵入。
- 1241年4月、モヒの戦いにおいて、ハンガリー王ベーラ4世がモンゴル軍に敗れた。
- 1242年2月、逃走するベーラ4世を追うモンゴルの追討軍がダルマティアの海岸にまで達したが、ベーラ4世を補足することは出来なかった。
- 1242年夏、オゴタイ・ハーンの死去によりモンゴル軍が撤退。ベーラ4世は、荒れ果てたハンガリー東部にドイツ人やクマン人を移住させた。
- 1247年 - 1265年、ベーラ4世の命により、ブダの丘に王宮が建設された。
- 1254年、カトリックを捨てて異端のボゴミール派を国教としたボスニアが衰退し、ハンガリーの支配下に入った。
- 1255年頃、聖母教会(後のマーチャーシュ教会)が建設された。
- 1272年、幼少のラースロー4世がハンガリー王に即位。その治世下にマグナート(大貴族)は更に勢力を拡大した。他方、地方貴族は団結を強め、王権は衰退した。
- 1280年、クマン族の反乱が鎮圧された。
- 1301年、ハンガリー国王アンドラーシュ3世死去。ここにアールパード朝が断絶した。
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