東西南北 春夏秋冬 
ヨーロッパの旅 
 
ブダペストの春(ハンガリー)
 
1996 年 5 月
 
 
[ ハンガリー略年表 -5.] 
 
オスマン・トルコとの戦い ( 16 - 17c)
 
 
 
- 1490年、マーチャーシュ王の死去に伴ない、ヤゲロ家のウラースロー2世がハンガリー王に選出された。彼の父カジミェシ4世は、ポーランドとリトアニアの王であり、彼自身もボヘミア王(ヴラディスラフ2世)となっていた。
 
 
 - 1492年、ハンガリー国会が農民の移動を禁止。以後、再版農奴制がほぼ完成。
 
 
 - 15世紀後半、バルカンに進出したオスマン・トルコがドナウ川下流を制圧した結果、ドナウの水運に依存していたハンガリーの貿易が衰退し、都市のの停滞につながった。
 
 
 
右の画像は、ブダペスト郊外のドナウ川の様子。 
 
ドナウ川については、ココをクリック。 
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 - 1514年、中小貴族を代表するヴェルベツィ・イシュトヴァーンが三部法典を国会に提出。マグナート(大貴族)に並んで中小貴族が独自の権利を確立した。他方では再版農奴制に反発する農民達が過去に例を見ないほど大規模な反乱を起こした。
 
 
 - 1521年、ベオグラードがオスマン・トルコに奪われた。
 
 
 - 1526年、ハンガリー国内の混乱に乗じて進出してきたスレイマン2世指揮下のオスマン・トルコ軍に対し、モハチの戦いにおいて大敗を喫した。この戦いでヤゲロ家のハンガリー王・ボヘミア王ラヨシュ2世が戦死。
 
 
ボヘミアとハンガリーの貴族たちは、ハプスブルク家のフェルディナントを王に選出した。 
 
しかし、トランシルヴァニア出身の大貴族サーポヤイ・ヤーノシュもハンガリー王を称して一部貴族の支持を集めていた。しかも、ハプスブルク家の権力の確立を嫌うオスマン・トルコは、サーポヤイ・ヤーノシュを支持していた。 
 
 - ハンガリーの大部分を支配下に置いたオスマン・トルコがウィーンを包囲。
 
 
 - 1538年、フェルディナントとサーポヤイ・ヤーノシュとの間に講和が成立。サーポヤイ・ヤーノシュの死後、ハンガリー全土をフェルディナントが支配することが定められた。しかし、ハンガリーの再統一を嫌うオスマン・トルコがハンガリーに侵入してきた。
 
 
 - 1541年、オスマン・トルコがハンガリー中央部を直轄地とした。東部はサーポヤイ・ヤーノシュの息子ジグモンドに与えてトランシルヴァニア候国とした。他方、ハプスブルク家の支配は、ハンガリーの西部と北部だけにすぎなかった。
 
 
 - 1564年、トランシルヴァニア候国の国会でルター派・カルヴァン派の信仰が認められた。ドイツ系市民の間ではルター派が、ハンガリー系貴族の中ではカルヴァン派が優勢だった。
 
 
 - 1570年頃、ブダにトルコ式の浴場が建設された。
 
 
 - 1593年、ハプスブルク家とオスマン・トルコとの間に戦いが始まり、トランシルヴァニア候国はハプスブルクに占領された。
 
 
 - 1604年、カトリックを信仰するハプスブルク家の支配を嫌うトランシルヴァニアの貴族たちは、ボチカイ・イシュトヴァーンを指導者として反乱を起こした。
 
 
 - 1606年、ウィーンの講和において、ハプスブルク家はトランシルヴァニア候国に対する支配権を放棄した。
 
 
 - 1618年、トランシルヴァニア候ベトレン・ガーボルは、ボヘミアの新教徒と同盟して三十年戦争に参戦。ハプスブルク家に対して優位に戦いを進めた彼は、一時期はハンガリーの王位を手中にしていた。
 
 
 - 1635年、カトリックの勢力回復を目指すエステルゴム大司教パーズマーニは、トルナヴァ大学(後のブダ大学)を設立。
 
 
 - 1645年、リンツの講和が成立。ハプスブルク軍と戦ったトランシルヴァニア候ラーコーツィ・ジェルジ2世は、候国の領土を拡大し、また新教徒の為の信仰の自由を獲得した。
 
 
 - 1657年、トランシルヴァニア候ラーコーツィ・ジェルジ2世は、宗主であるオスマン・トルコの意向に反してポーランドに遠征したが失敗。ハプスブルク家の侵攻とオスマン・トルコによる干渉を招いた。
 
 
 - 1664年、ハプスブルク家がオスマン・トルコ軍に勝利。
 
 
 - 1672年、ハプスブルク家支配下のハンガリーにおいて、新教徒の反乱が起こった。
 
 
 - 1677年、テケイ伯爵を指導者とするハンガリーの新教徒反乱軍は、トランシルヴァニアとオスマン・トルコの支援を得て勢力を拡大した。
 
 
 - 1681年、新教徒の反乱に手を焼いたハプスブルク家のレオポルト王は、ハンガリー王国の自由と貴族の特権を尊重することを確約した。
 
 
 - 1683年、新教徒の反乱に乗じたオスマン・トルコがウィーンを包囲したが失敗に終わった。新教徒反乱軍の指導者テケイ伯爵もウィーン包囲に参加したが、多くの反乱貴族が離反した。
 
 
 - 1686年、ハプスブルク軍がブダからオスマン・トルコ軍を駆逐し、更にハンガリーの大部分をトルコの支配から解放した。
 
 
 - 1687年、ハンガリーの国会が、ハプスブルク家の男系による王位世襲を認めた。同時に1222年の金印勅書による貴族の権利を放棄した。
 
 
 - 1690年、オスマン・トルコが大規模な反抗を試みたが失敗。
 
 
 - 1699年、カルロヴィッツの和約により、ハンガリーはハプスブルク領となった。
 
  
 
 
 
 
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