東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
ブダペストの春(ハンガリー)
1996 年 5 月
[ ハンガリー略年表 -10.]
自由化と反動 ( 1950年代 )
- 1953年3月、ソ連の指導者スターリンが死去。
- 1953年6月、ソ連の圧力により、ナジ・イムレが首相に就任した。政策の転換を目指した彼は、生活水準の向上を図り、農業の集団化を緩和し、宗教に対して寛容な姿勢を採り、思想的な締め付けのシンボルとなっていた強制収容所を廃止した。しかし、勤労者党に残るスターリン主義者との対立は激化していった。
- 1955年4月、首相ナジ・イムレ退陣。反動的な勤労者党第一書記ラーコシの腹心でもある副首相ヘゲドゥーシュ・アンドラーシュが後継首相となった。
- 1955年6月、勤労青年同盟に属するペテーフィ会が、粛清犠牲者の名誉回復と勤労者党第一書記ラーコシの追放を要求した。
- 1955年秋、検閲に抗議する作家同盟の幹部達が一斉に辞職した。
- 1955年11月、ナジ・イムレが勤労者党から除名された。
- 1956年9月、作家同盟機関紙が完全な言論の自由を要求。
- 1956年10月9日、1949年に処刑された戦時中のレジスタンス指導者ライク・ラースローの国葬が行われ、30万人の市民が参加した。
- 1956年10月13日、多くの国民の支持を集めるナジ・イムレの勤労者党への復帰が認められた。ペテーフィ会は、ナジ・イムレの勤労者党中央委員会への復帰を要求した。
- 1956年10月23日、ハンガリーと同様に自由化を求めていたポーランドの国民との連帯のための穏健なデモが行われた。しかし、デモは治安部隊との衝突を招き、ソ連軍が出動すると同時に戒厳令が布かれた。
- 1956年10月24日、ブダペストで市街戦が起こっている中、勤労者党中央委員会において、ナジ・イムレの首相復帰が決定された。ナジ・イムレは直ちに自由化に向けて動き始めた。
- 1956年10月25日、国会議事堂前で数百人のデモ隊参加者がソ連軍によって殺害された。
- 1956年10月28日、ソ連軍が撤退を始め、戒厳令が解除された。
- 1956年10月30日、自由化に伴なって復活した小地主党・民族農民党・社会民主党などを含むナジ・イムレ連立内閣が発足。
- 1956年11月1日、ナジ・イムレ連立内閣は、ワルシャワ条約機構からの脱退とハンガリーの中立を宣言した。
他方、勤労者党の再建を断念した保守派のカーダールはl、社会主義労働者党の結成を発表した。
- 1956年11月4日、軍事介入に乗り出したソ連軍がブダペストを占領し、抵抗を鎮圧した。同日、ナジ・イムレはユーゴスラヴィア大使館に避難した。
- 1956年11月7日、ブダペストに帰還した社会主義労働者党のカーダールが政権を掌握した。
- 1956年11月17日、交渉のために自由を保障されたナジ・イムレがユーゴスラヴィア大使館を出たところを、ソ連大使館が捕えルーマニアに連れ去った。
- 1956年12月、権力を掌握したカーダールが組織した民兵が、自由を求めるデモ隊に向かって発砲し、数百名の死者が出た。政府機関の混乱によって国境警備が緩み、20万人が国外に脱出した。
他方、スエズ動乱によって忙殺されていた西側諸国は、実効的な対処をすることが出来なかった。
- 1957年1月、作家同盟は活動停止を命じられた。
- 1957年4月、作家同盟の解散が命じられた。
- 1957年11月、労働者評議会が全面的に禁じられた。
- ナジ・イムレ元首相の処刑が発表された。
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