東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
ブダペストの春(ハンガリー)
1996 年 5 月
[ ハンガリー略年表 -11.]
柔らかな独裁の崩壊 ( 1959 - )
- 1959年1月、しばらくはナジ・イムレ首相の自由化路線を継承したカーダールだったが、再び集団化政策に復帰していった。
- 1961年初頭、農場の集団化・国有化率が90%に達した。
- 1961年12月、カーダールは、ラーコシなどの党内のスターリン主義者を追放し、他方で政治犯を釈放した。
- 1964年、ハンガリー政府とイタリアのローマを拠点とする教皇庁との間に協定が成立。ハンガリーは、より寛容な宗教政策を採用した。
- 1968年1月、部分的に市場経済原理が導入された。
- 1968年8月20日、ワルシャワ条約機構軍の20万人の兵士達がチェコに侵攻し、「プラハの春」を押し潰した。侵攻軍の中にはハンガリー軍の兵士達も加わっていた。
- 1971年9月、ミンドセンティ枢機卿の出国がハンガリー政府によって認められた。1949年に逮捕された枢機卿は、1956年に釈放された後、アメリカ大使館に保護されていた。
- 1972年、憲法改正。社会主義労働者党の社会を指導する役割が弱められた。
- 1974年3月、経済の自由化を進めてきた党政治局員ニェルシュが失脚。党内の保守派による反動の動きが活発化していた。後に文化面での自由化の推進者だった党政治局員アチェールも失脚。
- 1975年3月、第11回党大会において、カーダールは経済と文化における締め付けの強化を主張した。
- 1988年5月、カーダールが解任された。
- 1988年11月、ネーメト・ミクローシュを指導者とする社会主義労働者党改革派の政府が発足した。
- 1989年5月2日、ハンガリーがオーストリアとの国境線にあった鉄条網を撤去。
- 1989年6月16日、ナジ・イムレの名誉回復がなされ、国葬が行われた。
- 1989年8月19日、汎ヨーロッパ・ピクニック事件。自由を求める多くの東ドイツ市民がハンガリーとオーストリアを経由して西ドイツに逃れ、やがてはベルリンの壁の崩壊に至った。
- 1989年10月23日、ハンガリー共和国と改称された。
- 1990年、総選挙において社会党(旧社会主義労働者党)が敗北し、民主フォーラム連立政権が発足。
- 1991年6月、最後のソ連軍兵士がハンガリーを去った。ワルシャワ条約機構が解消された。
- 1994年、総選挙によって社会党が政権に復帰。
- 1998年、総選挙において社会党が敗北し、青年民主連合連立政権が発足。
- 1999年、NATO加盟。
- 2000年、聖イシュトヴァーン戴冠千年記念祭。
右の画像は、ブダペスト市内の聖イシュトヴァーン大聖堂にある聖イシュトヴァーン王の像。
聖イシュトヴァーン大聖堂に関して詳しくは、ココをクリック。
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