東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記「イタリア北部の旅」

06. サン・ジョヴァンニ洗礼堂(フィレンツェ)

ドゥオモ(大聖堂)とジョットの鐘塔とサン・ジョヴァンニ洗礼堂

フィレンツェのドゥオモ(大聖堂)とジョットの鐘塔を見たら、次はサン・ジョヴァンニ洗礼堂に決まっているよね。下の画像の中央に見えるクーポラがブルネレスキによって完成されたドゥオモ(大聖堂)。その右手がジョットの鐘塔。そしてドゥオモの左手に見えているのが、このページの主役のサン・ジョヴァンニ洗礼堂だね。

フィレンツェのドゥオモあるいは大聖堂、右にジョットの鐘塔、左にサン・ジョヴァンニ洗礼堂(イタリア)

上の画像でもわかると思うけれども、ドゥオモ広場に三つの建物が競うように並んでいるんだ。だから、その三つの建物の全て見せる画像を撮るって無理なんだね。というわけで、カメラを構えても不満が残ってしまうんだ。ヨーロッパの古い街の教会や聖堂ではよくあることだけどね。

歴史あるサン・ジョヴァンニ洗礼堂

配置から言っても役割から考えても、サン・ジョヴァンニ洗礼堂は三つの建物のセットの一つと考えられるよね。でも、実は最も古い建物であり、且つ元々は洗礼堂ではなく礼拝堂だったんだそうな。

元々のサン・ジョヴァンニ洗礼堂が建てられたのは12世紀のこと。その後、アルノルフォ・ディ・カンビオの設計によるドゥオモ(大聖堂)の建設が始まり、この建物は洗礼堂に改められたらしい。但し、洗礼堂に改修される前ではあるけど、「神曲」で名高いダンテ(フィレンツェ生まれ)はここで洗礼を施されている。

フィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂にあるギベルティによる天国の扉のレプリカ(イタリア)

歴史あるサン・ジョヴァンニ洗礼堂なんだけど、その建物において最も観光客を集めているのが、上の画像にある扉かな。ローマサン・ピエトロ大聖堂にあるピエタで名高いミケランジェロはこの扉を見て「天国の扉」と表現したそうな。

ギベルティの天国の扉 ・・・ レプリカだけど

西暦1401年のことなんだけど、このサン・ジョヴァンニ洗礼堂の扉の制作者を決めるためのコンクール(主催はフィレンツェの羅紗生産者組合)が行われた。そこで優勝を争ったのが、ギベルティとブルネレスキだった。結果的に選ばれたギベルティがやがて制作したのが、洗礼堂の東扉「天国の扉」だった。

フィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂にあるギベルティによる天国の扉のレプリカ(イタリア)

この「天国の扉」(上の画像)には10枚のパネルがあるんだけど、各々のパネルが旧約聖書の物語のシーンを描いているんだそうな。但し、今のフィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂の東扉にはめ込まれているのはレプリカなんだ。実物はドゥオモ博物館で見ることが出来る。もちろん、私たちも後でドゥオモ博物館にも入るつもりなんだけどね。

他方で扉制作のコンクールにおいて優勝を逃したブルネレスキなんだけど、フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会には彼の「十字架のキリスト像」が残されている。ドナテッロが「これぞキリストだ」と感嘆したという傑作なんだ。そんな傑作を生み出したブルネレスキなんだけど、コンクールで優勝を逸した後にローマへ移り、そこで建築を勉強したそうな。その後、このフィレンツェのドゥオモ(大聖堂)のクーポラを完成させ、建築家として名を残したわけだね。

サン・ジョヴァンニ洗礼堂にある対立教皇ヨハネス23世の墓

そんな「天国の扉」で名高いサン・ジョヴァンニ洗礼堂の中に入る。下の画像がその内部の様子なんだけど、画像の中の左手奥に明るくなっている部分が見えるよね。あれは教皇ヨハネス23世のお墓で、墓碑を作ったのはドナテッロとミケロッツィだったそうな。

フィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂の内部、奥に対立教皇ヨハネス23世の墓(イタリア)

でも、・・・ 教皇ヨハネス23世って、・・・ 調べてみると、西暦1963年に亡くなっている。でも、その墓碑をドナテッロとミケロッツィが作ったって ・・・ 。

更に調べてみたところ、このフィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂にあるのは、対立教皇ヨハネス23世のお墓だった。西暦1309年に教皇のアヴィニョン捕囚が起こった。その後、西暦1377年には教皇グレゴリウス11世が南仏のアヴィニョンからローマに移っている。

ところが、グレゴリウス11世が亡くなった後に教皇ウルバヌス6世が選出されたことにフランスは納得できなかった。その結果、南仏アヴィニョンに教皇クレメンス7世が即位し、二人の教皇がローマとアヴィニョンに並び立つという教会大分裂(シスマ)が始まってしまった。

そんな状態を打破すべく、ピサにおいて公会議が開催された。そこで選出されたのが西暦1409年に即位したアレクサンデル5世だった。ところが、ローマの教皇もアヴィニョンの教皇も退位しない。結果的にローマ・カトリックの頂点たるべき教皇が三人も並び立つことになったわけだ。

ところが、翌年の西暦1410年にはアレクサンデル5世が亡くなってしまった。その後任として即位したのが、上の画像にお墓が見えている教皇(対立教皇)ヨハネス23世だった。彼はフィレンツェの名家メディチ家の支援を受けて教皇となったとされている。

ところが、この対立教皇ヨハネス23世については悪しき評価も伝えられている。イタリア南部ナポリの生まれなんだけど、元々は海賊だったなんて話もある。後に開催されたコンスタンツの公会議では、聖職売買・殺人など多くの罪で告発されたとか。更には前任のアレクサンデル5世は彼によって暗殺されたなんて話もある。

そのコンスタンツの公会議において西暦1417年に教皇マルティヌス5世が選出され、教皇のアヴィニョン捕囚から続く教会大分裂が収拾されたらしい。対立教皇ヨハネス23世は西暦1418年に亡くなり、サン・ジョヴァンニ洗礼堂にお墓が作られたわけだ。

そんな悪評の多い対立教皇の為にドゥオモ(大聖堂)の脇の洗礼堂にお墓を作らなくても良さそうなものだよね。でも、彼が教皇在位中にフィレンツェの名家メディチ家の銀行(ジョヴァンニ・ディ・ビッチが設立した銀行)は巨額な利益を稼いだそうな。お墓の一つくらい作るだけのことはあったんだろうな。


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