東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記 「エミリア・ロマーニャとトスカナ(イタリア)」

38. シエナのマンジャの塔とプブリコ宮殿

シエナ歴史地区を見渡すマンジャの塔

シエナの中心カンポ広場の脇にそびえるのは、下の画像にあるマンジャの塔。高さ 88メートルのこの塔に登れば、世界遺産となっているシエナ歴史地区を見渡すことが出来るわけだ。

シエナのカンポ広場を見下ろすマンジャの塔(イタリア)

ところが、資料によれば塔の上までは長い長い階段が続いていると ・・・ 。当時の運動不足の極みの私にそんな難行苦行を耐える力は無い。と考えてマンジャの塔に登るのは諦めた。それを今でも後悔しているんだ。是非ともマンジャの塔の上からシエナの歴史地区を見渡しておけば良かった。

ちなみに、このマンジャの塔が建てられたのは14世紀の前半のこと。完成は西暦1348年だったとされている。但し、時計が取り付けられたのは西暦1360年のことだった。

シエナの市庁舎でもあるプブリコ宮殿

シエナの歴史地区を見渡すマンジャの塔の足許、カンポ広場の脇にあるのがプブリコ宮殿(下の画像)なんだ。

シエナのカンポ広場の脇にあるプブリコ宮殿(イタリア)

このシエナの市庁舎でもあるプブリコ宮殿の完成は西暦1305年のこと。建設が始まったのが西暦1284年というから、20年余りの工事の末に完成したというわけだね。

11世紀頃から自治が芽生えたシエナは、西暦1167年には司教による統治を脱して独立的な自治都市となった。西暦1240年にはシエナ大学が設立(ボローニャ大学の設立に遅れること150年余り)され、西暦1260年にはライバルのフィレンツェとの戦いにも勝利を得ている。

金融と羊毛の取引で栄えた商人の街シエナ(フランチジェーナ街道の経由地でもある)は、まさに絶頂期にあった。そんな時期にシエナの市庁舎でもあるプブリコ宮殿が建設されたんだ。

まさにその頃、フランス南部プロヴァンス地方港町マルセイユ黒死病(ペスト)が上陸したのが西暦1347年のことだった。その翌年にはこのシエナでも黒死病が猛威をふるい、人口の半数が亡くなったらしい。

それからシエナは停滞し、やがて西暦1555年にはスペインと結んだフィレンツェがシエナを征服している。そんなシエナの防衛の為に戦った人々の中には、メディチ家と対立してフィレンツェから亡命した名門ストロッツィ家の息子たちもいたそうな。

プブリコ宮殿の中庭に狼とロムルスとレムスの像

プブリコ宮殿の中庭で見かけたのが、下の画像にある狼に育てられるロムルスとレムスの双子の像だった。古代ローマの建国者とされる双子のうちのレムスの息子セニウスがシエナを築いたと伝えられているからね。

シエナのカンポ広場の脇にあるプブリコ宮殿の中庭で見かけた狼とロムルスとレムスの像(イタリア)

でも、シエナの始まりは古代エトルリア人の街だったと学者は言っている。古代ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの時代にここに古代ローマ人があらためて植民したらしいけどね。

シエナとトスカナの風景

プブリコ宮殿の中にある市立博物館を見て歩く。展示されているのは、シエナ派の絵画などなど。でも、私が最も気に入ったのは、博物館の裏手(カンポ広場の反対側)のテラスから眺めた風景(下の画像)だった。シエナの周囲に広がるトスカナの田園風景だね。

シエナのカンポ広場の脇にあるプブリコ宮殿から眺めたトスカナの田園風景(イタリア)

フィレンツェやシエナがトスカナ地方の覇権をめぐって争っていた時代、このトスカナのあちこちを多くの貴族や傭兵や兵士たちが走り回っていたんだろうね。例えばフィレンツェの傭兵隊長として有名なイギリス出身のジョン・ホークウッドとか。メディチ家弟脈出身のフィレンツェ大公コシモ1世の父親で、やはり傭兵隊長として著名な黒備えのジョヴァンニとかね。


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