フィレンツェにあるウフィツィ美術館旅も7日目となればちょいと疲れもたまっている。ホテルの部屋に落ち着いたら、少々眠くなってしまった。ちょいと昼寝でもしないかな。でも、何故か元気を取り戻している家内は、情け無用の観光の鬼と化していた。ひきずられるようにホテルを出たのは夕方の4時だった。どうせ混んでいて入れやしないよ ・・・ と思いつつ、それでもウフィツィ美術館にやって来た。驚いたことに待ち時間無しで入ることが出来たよ。3年前にフィレンツェに来た時には、ウフィツィ美術館に入るために長蛇の列に並んだんだけどね。 それにしても、このウフィツィ美術館のスタッフの皆さんは、横柄で高飛車で愛想が無いねえ。イタリアの殆どの人たちは愛想が良いんだけど、その例外の極めつけがウフィツィ美術館の館員たちだね。この美術館は大好きだけど、そのスタッフは大嫌いだ。 そんなことはともかく、フィレンツェにあるウフィツィ美術館といえば、ミケランジェロやラファエロなどのイタリア・ルネサンスの芸術家の絵画のコレクションを見るには世界でも最高峰の美術館だよね。 といっても、元々はこの建物はメディチ家のフィレンツェ大公コシモ1世のオフィスとして建てられたものだった。ちなみに、フィレンツェの属するトスカナ地方の方言の言葉「ウフィツィ」が英語の「オフィス」の語源になったんだそうな。(更に余談だけど、「神曲」で名高いダンテによってトスカナ方言はイタリア語の基礎になったらしい。) そんなウフィツィにはメディチ家の絵画などが飾られ、西暦1591年からは一部が公開されていたらしい。その後、西暦1737年にはメディチ家最後のトスカナ大公ジャン・ガストーネが亡くなり、故大公の姉のアンナ・マリア・ルイーザがメディチ家の美術品コレクションをトスカナ公国に贈与した。そして西暦1769年にメディチ家の美術品コレクションを中心とした絵画などを展示するウフィツィ美術館が公開されたんだそうな。 ついでながら、ロンドンの大英博物館の設立は西暦1753年、ナポリの国立考古学博物館の設立は西暦1787年、パリのルーブル美術館はフランス革命直後の西暦1793年、フィレンツェのピッティ宮殿内のパラティナ美術館の公開は西暦1828年、サンクト・ペテルブルグのエルミタージュ博物館の公開は西暦1852年だったとか。ウフィツィ美術館はヨーロッパで最も古い美術館の一つなんだね。
ウフィツィ美術館で見たボッティチェッリの「春(プリマヴェーラ)」そんなウフィツィ美術館の主役の一人がボッティチェッリかな。イタリア・ルネサンスの画家の中でも、フィレンツェ派の代表的な存在だし、当然ながらこの美術館の主役たるべき人物だよね。
そんなボッティチェッリの「春」あるいは「プリマヴェーラ」(その部分が上の画像)は彼の代表作の一つだよね。西暦1477年に描かれたとされている。
ボッティチェッリの「ヴィーナス誕生」そしてウフィツィ美術館に来たならば、いやフィレンツェに来たならば、見逃しちゃいけないのが、下の画像(部分)にあるボッティチェッリの「ヴィーナス誕生」かな。
ボッティチェッリがこの絵を描いた西暦1485年頃、彼を含む芸術の庇護者たるメディチ家の当主、すなわちフィレンツェの支配者はロレンツォ・デ・メディチだった。イタリア・ルネサンスの黄金時代、フィレンツェの最も輝かしい時、メディチ家の全盛期に描かれたのがこの「ヴィーナス誕生」だった。
ボッティチェッリの師匠だったフィリッポ・リッピ話を戻してボッティチェッリのこと。彼が修行時代に師匠としていたのがフィリッポ・リッピだった。このウフィツィ美術館には、そのフィリッポ・リッピの作品もある。それが下の画像にある「聖母子と天使」なんだ。
ボッティチェッリがフィリッポ・リッピの徒弟となったのは西暦1464年頃とされている。ボッティチェッリが19歳の頃だね。そしてフィリッポ・リッピが亡くなったのは西暦1469年のこと。師匠の下で学んだのは数年間のことだった。でも、若い頃のボッティチェッリの作品には、師匠の影響が大きく表れているんだそうな。
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