東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記 「カンパーニャとローマ・ヴァティカン」(イタリア)

第四部 ローマ・ヴァティカン編

D10. ヴァティカン美術館・博物館のコンスタンティヌスの間

ヴァティカン美術館・博物館にあるコンスタンティヌスの間

オスマン・トルコによる第二次ウィーン包囲で活躍したポーランド王ヤン3世ソビエスキゆかりのソビエスキの間に続いては、コンスタンティヌスの間を見て歩く。

イタリアの首都ローマのヴァティカン美術館・博物館の中のコンスタンティヌスの間

ここで言うコンスタンティヌスというのは、古代ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス(1世)のことなんだ。この部屋の壁の絵には、皇帝コンスタンティヌスの物語が描かれている。

コンスタンティヌス軍の目の前で天空に現われた十字架

西暦306年、コンスタンティヌスはスコットランドピクト人と戦っていた父帝と共にイギリス北部の街ヨークにいた。その父帝が亡くなり、ヨークの軍団はコンスタンティヌスを皇帝として推戴したらしい。でも、皇帝位の争いは続いた。そして西暦312年、イタリア北部を制圧したコンスタンティヌスはローマに向かって軍を進めていた。

イタリアの首都ローマのヴァティカン美術館・博物館の中のコンスタンティヌスの間の壁に描かれた皇帝コンスタンティヌスゆかりの天空に現われた十字架

コンスタンティヌスは、同じく古代ローマ帝国の皇帝となろうとしていた宿敵マクセンティウスとの戦いを目前にしていた。そんな彼の軍の目の前で、天空に十字架が現われたらしい。コンスタンティヌスの軍勢と天空の十字架を描いた絵が上の画像なんだ。

コンスタンティヌスとミルヴィオ橋の戦い

西暦312年10月28日、ローマ近くのミルヴィオ橋での戦いでコンスタンティヌスがマクセンティウスを撃ち破り、古代ローマ帝国の西の正帝としての地位を確立した。(そのミルヴィオ橋の戦いを描いた絵が、下の画像。)

イタリアの首都ローマのヴァティカン美術館・博物館の中のコンスタンティヌスの間の壁に描かれた皇帝コンスタンティヌスゆかりのミルヴィオ橋の戦い

ミルヴィオ橋での戦いの前に天空に十字架が現われたことから、キリスト教の加護によって勝利を得たとした皇帝コンスタンティヌスは、西暦313年にもう一人の皇帝リキニウスと共にミラノ勅令を発し、古代ローマ帝国でのキリスト教の信仰を公認したわけだ。

でも、やがて皇帝リキニウスはキリスト教徒に対して迫害を始めた。二人の皇帝コンスタンティヌスとリキニウスとの関係は悪化し、戦いとなった。西暦324年には皇帝コンスタンティヌスが勝利を得て、リキニウスは翌年には処刑された。こうして皇帝コンスタンティヌスが古代ローマ帝国の全ての権力を掌握したらしい。

皇帝コンスタンティヌスによるローマ献上

古代ローマ帝国の最高権力者となった皇帝コンスタンティヌスが教皇シルヴェステル1世にローマを献上する様子を描いた絵が下の画像なんだ。

イタリアの首都ローマのヴァティカン美術館・博物館の中のコンスタンティヌスの間の壁に描かれた皇帝コンスタンティヌスのローマ献上

中央の奥に見えるのは聖ペテロの祭壇なんだけど、16世紀初頭に今のサン・ピエトロ大聖堂の建設が始まる前の大聖堂にあったものが描かれているらしい。また、描かれているローマ教皇シルヴェステル1世の法衣は、フィレンツェの名家メディチ家出身の教皇クレメンス7世のものらしい。

色々な人々の思惑が見え隠れしてとっても興味深い絵なんだけど、西暦330年に古代ローマ帝国の首都をコンスタンティノープルに移した皇帝コンスタンティヌスが、教皇にローマを献上したという話は、史実としては認められていないらしいよ。

余談ながら、このヴァティカン美術館・博物館の中のコンスタンティヌスの間にある絵を制作したのは、ジュリオ・ロマーノとフランチェスコ・ペンニなる人物たちだった。あまり聞いたことの無い名前なんだけど、彼らはラファエロの助手たちなんだそうな。そして、いよいよ次のページにはラファエロ作品が登場するよ。


次のページは
「D11. ラファエロ -1. ヘリオドロスの間」



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